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首里城の今⑦2022年6月

上の写真は戦跡・第32軍司令部壕第5坑道につながる道。第5坑道は首里城から数百メートル離れた沖縄県立芸大金城町キャンパス付近にあります。首里は琉球王朝の面影を残す観光地でもあり、沖縄戦の激戦地でもありました。

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6月23日、慰霊の日。首里城に行ってきました。
世界遺産の首里城には沖縄戦の戦跡としての側面もあります。
戦没者の冥福と平和を祈る慰霊の日に首里城に行くのなら、沖縄戦の時に日本軍の司令部がおかれた第32軍司令壕も見てみたいと探してみることにしました。

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奉神門から

まずは首里城へ。
上の写真が正殿があった真向いの奉神門からの定点観測。工事が始まって御庭はまったく見えなくなりました。
御庭には工事のためにクレーン車も入り、以前より工事現場で動き回る人が増えていました。梅雨も明けて、工事は着実に進んでいるようです。

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6月まで公開されていた正殿遺構の公開は終了。
首里城正殿が建っていた世界遺産の正殿遺構。これまでは上の写真プレハブの窓越しにわりと近くで見られましたが、現在はフェンスができて正殿遺構を見ることはできません。
正殿を再建する工事のため、正殿遺構は、数カ月かけて埋め戻す作業をしているそうです。
次に正殿遺構が公開されるのは上に正殿が再建された後。どんな風に公開されるのか楽しみです。

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東のアザナから

こちらの上の写真は東のアザナからの定点観測です。
東のアザナからは奉神門がほぼ見えなくなっています。
正殿再建のための木材加工所と作業所が完成すると、作業所の建物にさえぎられて奉神門はまったく見えなくなるでしょう。
次に来るときは作業所と木材加工所の建物ができているかもしれません。

古都・首里は戦場だった

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観光地として知られる首里城は戦跡でもあります。
上の写真は首里金城町の沖縄県立芸大近くにある第32軍司令壕の第5坑道。
住宅街を抜けた草むらを下った場所にあります。

1945年の沖縄戦の時、首里城の地下には日本軍の司令部が置かれていました。米軍の攻撃に備えて司令壕はつくられ、全長は約1キロメートルにおよぶといわれています。地下約30メートルの所に首里城を南北に横断するように坑道が掘られました。
坑道を掘る工事には師範学校などの学生や住民らも徴用されたといいます。戦時には男子学生だけでなく、女学生も看護要員として動員。多くの犠牲者を出しました。

1945年5月、日本軍は首里から南部へ撤退。先に多くの県民が避難していた南部に撤退したため、民間人が戦闘に巻き込まれてしまいました。南部撤退の決断がされた現場である司令壕は当時のことを知るための重要な戦跡でもあります。しかし、軍の機密保持のため撤退時に司令壕は爆破され、入れなくなってしまいました。今でも不明な点が多いのです。

沖縄戦から77年。司令壕は落盤の危険もあり、調査、保存は時間との戦いでもあります。首里城の火災の後、首里城の復興と共にこの第32軍壕も調査、整備して公開しようという動きも出てきました。第32軍壕の坑道の入口は現在分かっているだけで5か所。4か所は埋もれてしまい、現在も開いている入口は第5坑道のみです。

その第5坑道は那覇市首里金城町の沖縄県県立芸大近くと聞いて探しに行ってみました。

23日にはたどり着けなかったので、後日場所を知っているという夫に案内してもらいました。案内してくれる人がいたから、なんとかたどり着けましたが案内してくれる人がいなければ、無理だったと思います。

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沖縄戦当時、首里城地下に司令部が置かれたことで、米軍の攻撃の対象となり首里城も周りの文化財も首里の街も破壊されてしまいました。首里城公園内でも師範学校の学生や新聞発行に使われた留魂壕、龍潭のほとりにも第32軍司令壕の施設跡があります。

23日、第5坑道を探して首里城駐車場入り口にいた案内係の男性に道を尋ねました。70歳は超えているだろう男性は「金城町の入口は知らないけど、龍潭のところにも32軍壕はあるよ」と教えてくれて、話を聞かせてくれました。

「龍潭のところにも、トーチカと入口はあるよ。子どもの頃はそこに入って遊んだこともある。今は金網でふたがされているけど。首里城の地下とつながっているって聞いたことがある。昔は薬きょうとかがいっぱい落ちていてね。火薬を抜いて遊んだりしたさ。今、考えると危ないね。そこにも(近くを指さしながら)、不発弾があったよ」

沖縄は各地に戦争の跡があり、不発弾が見つかるのも日常の風景。
戦後、不発弾が爆発して死亡したりけがをする事故も起きています。
ひとりの沖縄県民として、戦争の悲惨さを伝えるためにも、首里城正殿とともに第32軍壕も整備し公開してほしいと願っています。

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