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キネマの神様、ありがとう。〜なぜ志村けんさんだったのか〜

完成度でいったら『そこのみにて光輝く』(2014)だよ!(以下、敬称略)

#菅田将暉作品を語る キャンペーンなんて松竹さんも粋なキャンペーンをするではないかと子生意気なことを考える。他社作品だって多いのに。ちょうどこの間だって、花束みたいな恋をした、という誰しもが語りやすい映画が公開されたばかりで、キャンペーン参加投稿はこの作品に集中してしまうのでは、と要らぬ心配すらしてしまう。裏を返せば、それだけ映画界全体で映画を盛り上げていきたいという思いが詰まっているのでは、と感じる。

こうした企画が成立してしまう菅田将暉も菅田将暉だ。量、質ともに日本のトップレベルだろう。出過ぎて体調崩さないか不安になると同時に、一本一本のパフォーマンスの高さに甚だ驚かされる。しかも毎週ラジオに出て、俳優として致命傷になりかねない、素を全面に押し出しているばかりか、歌手としても十分すぎる歌唱力を持って紅白にも出場している。ギアが何速あれば足りるのだろうか。ファンを広く獲得するキャッチーさとうるさ方を唸らせる丹念さを究極的に兼ね備えている。また、イケメンすぎないのもミソである。(私はイケメンだと思っているし、あの顔に生まれたかったとも思っているが、『キネマの神様』を一緒に見に行った女性がそう語っていたのを参照した。)

菅田将暉作品で何か語るとしたら、初めに勢い余って述べてしまったが、至極の一本として『そこのみにて光輝く』をあげるものだと思っていた。あるいはすでにYouTubeで紹介した今年の人気作『花束みたいな恋をした』や『キャラクター』の動画をここで投稿すればそれで済む話なのである。 

しかし、『キネマの神様』という山田洋次監督から映画ファンへのラブレターとも別れの手紙とも受け取れる作品を贈られた時、映画好きとして私もお返事を書かなければという気持ちに駆られた。菅田将暉、というテーマからは少し逸れてしまうかもしれないが、主演の一人として作品の成立に大きく寄与しているのは間違いないので、ご容赦いただきたい。

偶然か、はたまた映画そのものの存続を危惧してか、映画館や映画作りそのものを題材にした映画が連続で公開された。『映画大好きポンポさん』(以下、ポンポさん)や『サマーフィルムにのって』(以下、サマーフィルム)などだ。鬼才、大林宣彦監督も『海辺の映画館―キネマの玉手箱』なんて作品を遺して旅立った。ちなみに、この作品でも『キネマの神様』同様、小林稔侍さんは寂れた映画館の支配人だ。同じ映画館ではないかと思うほどそっくりだ。

ポンポさんやサマーフィルムが映画作りを若さ溢れる視点で賛美に徹しているのに対し、御年89歳になられる山田洋次の映画作りに対する視点はもっと達観している。そんな単純なものではない、そんな生易しいものではない、と諭しているようにも見える。しかし、徹底して庶民の生活を描いてきた山田洋次の、映画史に裏打ちされた確かな人生賛歌に仕上がっている。

山田組的にいえばポスト妻夫木聡の菅田将暉もさることながら、菅田将暉と自然なアンサンブルを見せる永野芽郁やおそらく原節子の立ち位置に当たる北川景子、ミュージシャンが本業とは決して思えない野田洋次郎、いつの間にか大きくなっていた前田旺志郎、自身も監督と結婚した宮本信子といった山田組としては新鮮な顔ぶれとなった俳優陣の素晴らしさは他の記事に譲ろう。いかにも芝居がかった演技に驚いた人も多いかもしれないが、山田洋次作品ではこれが正解、むしろ今回は自然な方だったのではないだろうか。

(この辺から徐々に #ネタバレ ) 山田洋次は特にここ最近、惜しみなく小津安二郎へのオマージュを用いる。『東京家族』(2013)は如実な現代版『東京物語』(1953)のリメイクであり、『家族はつらいよ』(2016)では橋爪功が『東京物語』を見ている。『小さいおうち』(2014)ではあの畳の高さからの正面のショットがたびたび用いられ、時代背景もあり、会話もあのテンポだ。本作でもやはりラストは『東京物語』だった。

驚いたのは撮り方だ。今作では、観客を登場人物たちの会話の中間に固定するような小津的な撮り方は封印され、徹底して「神様」の視点に観客を誘う。もっとも観たいものを客観的に、観客が見られる構図になっている。ほとんど動かないし、過度に寄ったりひいたりしない。観客のみが全知全能と言わんばかりに登場人物たちの行動をただただ盗み見ることを許されているような撮影で、「『キネマの神様』はあなたたち、お客さんですよ!」言われているような気分にすらなったのであった。スクリーンで起こっていることと観客の間をなるべく監督という「神様」が邪魔をしていないとも言えよう。

とにかく今作は数多くの映画がメンションされる。筆者も全ては覚えていないし、どれが本物で、どれが偽物の映画のポスターかわかっていないものも多々あるが、小津以上に強い印象を残すのはやはりチャップリンだ。何より『ライムライト』(1952)である。野田洋次郎演じるテラシンの部屋にはいくつかチャップリン映画のポスターが貼ってあったが、『サーカス』(1928)や『独裁者』(1940)以上にアップになるのがこの『ライムライト』である。

『ライムライト』未見の方は、ぜひここからは読まずに、まずは『ライムライト』をご鑑賞いただきたい。素晴らしい映画だから。『ライムライト』(ちなみに配給は松竹)の顛末にも少し触れたいと思う。チャップリン晩年の作品で、かつてコメディアンとして活躍していたチャップリン演ずるカルヴェロがすっかり忘れ去られて、酒浸りになって...とここまででも十分本作とのシンクロ率がすごいが、さらにカルヴェロは少女との出会いをきっかけに、最期の最期で道化師として再び舞台に立ち復活を遂げる。しかも同じ舞台にはバスター・キートン演じる主人公同様落ちぶれた長年のパートナーも立っている。舞台上からカルヴェロは転落し、ゆっくりと死んでいく。

そう、ゴウはカルヴェロではないか。脚本賞という栄光を最期に掴みかけるも、長年のパートナー、テラシンの映画館で映画を見ながらゆっくりと亡くなっていく。テラシンはバスター•キートンだ。劇中しっかり彼の口から「バスター•キートン」の名前も聞き取れる(確か言ってたよね?)。

だから、志村けんだったのだ、ゴウは。あのちょび髭。チャップリンにリスペクトのあるコメディアンとしてこれ以上ないキャスティングだと考えれば考えるほど、胸に込み上げてくるものがある。志村けんのゴウが見たかった。歌手であるジュリーに歌で追悼捧げる演出はこれ以上ない相応しいものだったけど。加藤茶でも見たかった。欽ちゃんも良かったかもしれない。いやあでも、酔っ払いの志村けん、見たかったなあ。(『鉄道員』(1999)をまたみよう。)

チャップリンといえば、「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。」という名言があまりにも有名だ。今作で起こっていることは、端的にストーリーを追うと悲劇だ。才能のあった若者が、初監督作に失敗し、そのまま惰性で生き続け、堕落し、束の間の成功をつかむも、表彰式にも参加できなければ、その後すぐ亡くなってしまう。しかし、あまり悲劇的印象が強くないのは、ゴウにあまりクローズアップしないからではないか。

ゴウが松尾貴史演じる撮影監督とロングショットにするか否かで口論するシーンがある。悲劇になるか、喜劇になるか、決定的な別れ目だ。今作がクローズアップともロングショットともいえない、客観的なマスターショットが多いのは89年生きてきた山田洋次からして、人生は悲劇でもあり、喜劇でもあるというメッセージなのではないだろうか。悲劇にだって喜劇の側面はあるし、喜劇にだって悲劇が訪れることがある。そうやって構えて生きていれば、生きていけるんじゃないかと。現実的だが、それを受け入れることが人生って素晴らしいと思えるきっかけになるのではないか。

『素晴らしき哉、人生!』(1946)への劇中の言及も印象深い。あの映画の主人公も立派な人物であったが、多額の負債がゆえに、酒浸りになり、命を絶とうとする。ああ、また落ちぶれた主人公だ。「自分なんて生まれてこなければよかったんだ!」という主人公に対し、天使が自分が生まれてこなかった場合の世界を見せる。これは終盤、ゴウがテラシンに「淑子は俺とではなくお前と結婚すべきだった。」と自分という選択が誤りだった、と伝える姿に重なる。テラシンが真っ向それを否定するのは、彼が天使の役割を帯びているからだろうか。ひょっとしてテラシンこそ「キネマの神様」なのだろうか。

今作の場合、菅田将暉パートとジュリーパートで分かれていることを踏まえると、『素晴らしき哉、人生!』の主人公が施してきたような菅田将暉は無意識的な善なるものの行為者として機能しているということになる。自然な善を表現できる役者として山田洋次が選んだということだろう。人気者であることにも改めて納得する。と、最後に少しだけ菅田将暉評を入れておく。

いなくていい人間なんていない、そう天使は教えてくれた。山田洋次も心からそこに共感しているのではないだろうか。




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