見出し画像

人生を通じて「『正しく頑張る人』が増え報われる社会」を実現したい

自己紹介記事を更新した。

https://note.com/abekazuhiro/n/n8a65ac8a874a

今あなたのビジョンは何ですか?と聞かれたら「『正しく頑張る人』が増え報われる社会を実現したい」と答える。

大枠1年前までのビジョンである「日本のグローバルプレゼンスを高めるために社会課題を解決する」とさほど中身は変わっていないが、日本に対するこだわりが薄まり、社会課題の中でも特に自分が向き合いたいテーマが絞られてきたので、ビジョンを更新した。

特に後者はコロナによる強制的な隔絶社会を経験し、より一層「人」に丁寧に向き合う時間を増やしたいという欲求が高まったことに起因する。

頑張り方教育とはなにか?

人には皆可能性があると信じている。
頑張ったからと言って必ず成果が出る程甘くない。成果が出なくても出るまでピボットしつつ継続し続ける胆力が求められる。

しかし「いくら頑張っても中々成果が出ない」のは自身の合格基準が低くそもそも頑張る量が足りないか、頑張り方を間違えているかだと思う。
学ぶコンテンツやそのコンテンツへの専門性以前の問題として、学び方・頑張り方で大きく差がついているように思えてならない。現に学校教育でも社会でも英語・数学・マーケティング・経営学など個別のコンテンツを指導するが、その学び方自体はあまり教えない。講師が要所要所で伝えたりするくらいだし、実はそれを聞き逃している人は多い。
頑張る量が足りない人は環境的な要因があるなら取り除きたいし、頑張り方を間違えている人は意識すべきこと/戦略を一緒に立て勇気付けて成果まで伴走したい。

こうした方々が少しでも報われるよう、「頑張り方」の手助けをしたい。

そもそもなぜ頑張り方教育をしたいのか?

大学・社会人生活の中で、人間関係面・能力開発面双方において「この人、もっとこうしたらいいのに!!なんでそこで悩む?止まってる?」、はたまた「やる気あるのにそのエネルギーの割き方はたぶん違うよ!全力疾走したその先には高確率で何もないよ!」という場面を結構見てきた。

開成中高時代はそんなこと感じなかったし、何なら自分が頑張り方を間違えている当事者だった。

開成での経験は今も生き続けている。学びは良かったら下記をお目通しいただきたいが、かいつまむと下記2つだ。

【人間関係面】

開成時代は皆が自分の意見をちゃんと発信して主体的に行動していた。皆がチームでの活動に協力的であるという意味では全くなく、協力的な人もそうでない人もいたが、各々の信条とスタンスを割と明確にしているケースが多かった。
「嫌なら嫌でいい。あいつは何なんだ?と言われようが関係ない。」という人もいれば、
「嫌だけど逆らう方が面倒だし、言うてそんな嫌じゃないしそれなら従っておいた方がお得。」一見中立的かつ周りに流されているような人も、「そもそも大した問題だと捉えていないからどうでもよい」というスタンスを取っていた。各々が各々の信条に従いスタンスをとるそんな風潮を当たり前と思っていた。

【能力開発面】

日本最高峰の頭脳を持つ同級生が近くにいる。できないこと・うまくいっていない時に彼らがそもそもどのように計画を立て課題解決しているのか、物事に向き合うスタンス/考え方に関して非常に学びが深かった。

しかしこれは世の中的にはマイノリティな社会であったことに高校卒業後気づく。

人間関係面だと大学時代にこういう実体験があった。
自身の研究だけでなく研究室全体の仕事に関しても朝から晩まで頑張っている先輩。自己主張はあまりせず、本来やらなくてもよい仕事まで集中したり、歪みが行く状態だった。もっと活躍できる場所があるはずだし、評価されていいくらいの能力を持っている人なのに。。。悔しい気持ちになった。
ただ厳しいこと言うと本人の問題が多い。自分の中で折り合いをつけて本当は嫌なのに主張できずに疲弊していた。自分のスタンスを明確に取る勇気が必要なのだ。でもそれができない人は非常に多いのも分かっている。自分に素直になってエネルギーはいるけど主張できるようになってほしい。。。

能力開発面だと浪人時代にこういう実体験があった。
朝から晩まで1年間同じメンツで勉強しかしない閉じたコミュニティで、「誰々が女のこと仲良く話していた」だの、どうでもいいことで人間関係が悪化したり、それによってストレスを生んで、本来受験勉強に割くべきリソースが阻害されていたり。

こういうパターンもあった。大学でダンスサークルに入った。同じ練習を同じだけしているのにうまくなる人ならない人でなぜこんなに差が出るんだ?!と愕然した。自分は不器用なので最初は人より上達が遅かったが、「頑張り方」は高校時代に心得ていた。量質ともに高い練習をし、2年後には中心人物になれた。
後輩を見る立場になって練習で「こういうの意識してこの練習やっている?」と聞くと、やっておらず、ただ形だけ真似ているだけだった。「それでは今目の前で行われているその振付しかうまくならないし、汎用的な技術として積みあがらないよ?」とレクチャーすると目から鱗、といった反応をされた。

こういうパターンもあった。ある予備校でバイトしていた頃、毎日自習室に通い朝から晩まで勉強している頑張り屋な子。しかし全然成績は伸びない。勉強の仕方が全くイケてなく、教科書を最初から読んでは写してまとめノートを作り、赤シートで隠して暗記する。色々な参考書に手を出してみる。そんな子だった。人間の記憶は丸っと教科書を頭の中に入れて、必要な形に再編集出来る程賢くできていない。問いが用意されていて正解も規定された受験勉強では求められるアウトプットから逆算してインプットを進め、体系立てて情報を構造化して理解した方が効率的だ。

こういうパターンもあった。大学時代、芸術の才能があるのに継続する力はなく、趣味の域からでない。一緒に何かを進めていても違う観点を出したり動いたり、仕事ができる。なのに継続力はなく、今は一般職として働いている。「もっとやれるし、もったいないよ。才能ないからって言うけどやってみないと分からないのに!」。
本人が今の生活を望んでいるなら幸せの形として全く否定しないが、話してみると折り合いをつけて諦めているように感じてやるせない気持ちになる。挑戦してほしい。。。

人がエネルギーを燃やせるのは小さくても成功体験を積めた時、「やればできる」と思えた時だと思う。せっかく「やる」という初めの一歩、一番大きなハードルを越えているのに、やり方を間違えているせいで成功体験を積めず、腐ってしまうのは勿体なさすぎる。
また能力があるのに人間関係で主張しきれず、自身の能力を開花させきれないのも勿体なさすぎる。
勿体ない、という気持ちと共になぜか憤りすら感じる。


「正しく頑張っている人が報われる社会にしたい」

これまで仲間・チーム(所属コミュニティ・会社・国・世界)における不条理と不合理に対して激しい怒りと「自分が何とかするのだ」という使命感/大義なるものを強く抱いて生きた。
大きな強みとなる個性や技術があって一生懸命、誠実にひたむきに頑張っているけど、頑張り方を間違えている、という人は何とかしてあげたい。そしてできるだけ多くの人をなんとかしたい。

念頭にあるのは【頑張り方の個別最適化/人×人数(影響力の範囲)=世界における幸福の総量≒世界平和】という僕なりの方程式だ。

「自由に生きたい」、たぶん皆思う。自由ってなんだ?
ある方が「自由とは好きなものを買えるとか好きな場所に旅行できるとかそんな次元ではなく、『助けたい人を助けたい時に助けられる』、そういう次元のことだ」と仰った。その通りだと思う。

「好きなことで生きていく」これはYoutuberにしかできないのか?
そんなことないはずだ。皆が自由に生きたいと思っている。
でも勇気がないだけ。めんどくさくて続かないだけ。でもそんな人も部活は続けられたのでは?意志の力は弱いが、仲間との約束、習慣の力は強い。
「頑張り方教育」を通じて「正しく頑張っている人が報われる社会にしたい」を創っていくのが私のミッション。

おそらく人をコーチするのは好きだし向いている。しかしそれだけではダサい。人には言うなら自分も実践できないと。
「教育者たるもの実務者たれ」と自分自身に誓った。
個人として”事業開発”という変数の多い複雑性の高い領域で成果を出し、その頑張り方が再現性の高いものであることを身を持って証明するとともに、社会的影響力のある人間として教育に関わりたい。

大きな社会的“不”を解消するために、自分自身が社会に対して影響力を行使できるほどの信頼と実績を積み、そして正しい頑張り方を教育すること、これを人生を通じてやっていく。

今はその途中にいます。今後もnoteで「頑張り方」を中心に発信していくのでよろしくお願いします!


この記事が参加している募集

自己紹介

よろしければサポートよろしくお願いいたします!