Crosstown Traffic――シリル・ルティ『ジャン゠リュック・ゴダール 反逆の映画作家《シネアスト》』

※初出/『週刊文春CINEMA!』(2023秋号 09/11発売)

 特定の様式や題材の流行というのは時代の風物詩みたいなものだから、ジャーナリスティックな整理紹介に役だち時評の糸口に向いている。むろんあくまで話をわかりやすくするための方便にすぎぬが、筆者は以前――たしかクリント・イーストウッド監督作『アメリカン・スナイパー』の公開時だったと思われる――実話 ﹅ ﹅ スーパーヒーロー ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ という対極的設定がハリウッド映画の二大潮流になっていると指摘したことがある。それから一〇年ちかくが経とうとしている現在、業界の風景はどう見えているか。
 本年公開作において、『オッペンハイマー』や『グランツーリスモ』といった実話映画、またはMCUやDCの諸作がおおきな存在感を放っていることはまちがいないだろう。その意味では、往時とさほど変化なく映るが、とはいえ他方、新興独立系プロダクションA24が送るユニークでオルタナティブな作品群が興行的にも批評的にも成果をあげていったこの一〇年の経緯にも着目しないわけにはゆかないとすれば、目下のハリウッドは過渡期に入っていると見なすのが妥当なのかもしれない。
 あるいは各々の題材に掘りさげるべき余地がまだ大いに残されているからこそ、実話 ﹅ ﹅ スーパーヒーロー ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ がなおも撮られつづけているのだとも考えられる。そもそもかならずしも、潮流の長期化や定着それじたいがまずいわけでもない。長年ハリウッドが患ってきた慢性的なネタ不足という持病ももちろん無視できぬものの、A24だって実話映画をつくっているしスーパーヒーロー作品(の徹底したパロディー)『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で大成功をおさめてもいるのだから、組みたて方の工夫さえおこたらなければ今後も少なくともマンネリ化の打破は可能だろうとも思われる。
 いずれにせよ、昨今映画界最大の流行と言ってよさそうなのがマルチバースだ。MCUフランチャイズの新サーガがその印象の大半を形成しているのは疑いえないが、しかし今年は少々ネタかぶりすぎの感が否めない。
 当のMCUは『アントマン&ワスプ:クアントマニア』でDCは『ザ・フラッシュ』、またはアニメのほうでも(本潮流の先がけたる『スパイダーマン:スパイダーバース』の続篇)『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』が発表されたがそればかりでなく、長らく伏せられてきた内容が劇場公開を機にやっと明らかとなった宮崎駿の新作『君たちはどう生きるか』までもがマルチバース展開を採用している――類似作はこれらのほかにもありそうだ。かくして、横断的表現パロディーにより内容的にも形式的にもカテゴリーの垣根を越える『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が(マルチバース設定とパロディー形式はどちらも領域横断性を志向する好相性な組みあわせであるがゆえ)、今日のハリウッドにとってなおさら批評的に機能してしまうことになる。
 マルチバースとはざっくり言って世界の複数性を物語るための仕かけだ。この宇宙は唯一のものではなく、無数に存在しそれぞれが独立して展開しているが、なんらかのきっかけを経て別世界どうしの干渉が起こり相互移動が可能となる。その過程で生じた事件の混乱解消と原状回復にとりくむべく主人公らが時空横断劇をくりひろげてゆく、といったプロットや設定がだいたいの作品に共通している(ちなみに一見マルチバースとは無縁に思えるものの物語展開がこれにぴったりあてはまる『バービー』も現下の潮流のただなかに位置づけられる)。要するに、国家間や地域間や隣人どうし等々、従来の実際的な人間関係のみでは描きえないような(視覚効果の最新技術を活かしやすい)シチュエーション導入の契機として、マルチバースは利用されているわけだ。
 時空横断劇はしばしば同一状況のくりかえし描写がお約束になっているが、『ザ・フラッシュ』が(劇中でじかに言及されている時空横断劇の古典)『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三部作のドラマをなぞり反復性をいっそう強調していることはだれの目にもあきらかだ。当の三部作じたい(古典中の古典たる西部劇)『リバティ・バランスを射った男』(の非力な善人を鍛えつつ陰日向でサポートする主人公の行動が歴史に深い影響をもたらす物語に加え、クライマックス場面の種あかしとして別視点より史実を語りなおす反復描写)を再現していると言えようし(『ザ・フラッシュ』はすなわち二重の再現を試みていることになる)、こうした引用と再構築は映画においてごく一般的な作法でもあるのだから、作品間を横断し出来事のやりなおしをはかる表現の連鎖として形成されてきた映画史ぜんたいが、いよいよマルチバースそのものと見わけがつかなくなってくる。
 この議論はさらなる掘りさげを必要とするもののそろそろ本題へ移らねばならぬため中途で切りあげるが――つまりは映画にとり、マルチバースの潮流はまったくもって自然ななりゆきであり、原理的な帰結にほかならぬと言いたかったのである。異なる時間と場所で別々に撮影したショットをつないで同一場景であるかに見せかける、詐術的かつ横断的な説話技法が正統となり古来よりまかりとおる映画とはそもそも、記録媒体フィルムという重力場に閉じこめた宇宙を無数に生みだすことでなりたつ創造産業なのだから。創造力スーパーパワーと編集機を介すれば、別世界どうしの干渉を起こすのもたやすいが、とはいえ実情としては相互移動はめったにおこなわれず、混乱などいっさいないことにされている。
 ところで、これはすべてゴダールの映画についての話でもあると理解してほしい。というのも、合法的な自殺幇助の安楽死技術 ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ をもちいて昨年九月に死去した、唯一無二たる偉才の生涯をたどるドキュメンタリー『ジャン゠リュック・ゴダール 反逆の映画作家シネアスト』が、ここで今回とりあげる近日公開作だからだ。新人時代は内気で孤独な偏屈者と見られていたヌーヴェル・ヴァーグの雄が撮影現場で演出したりインタビューに答えたりするさまを関係者らの証言模様と織りまぜつつ断片的に示すなか、おそるべき速さで外階段を駆けおりる若きジャン゠リュックの姿をとらえた貴重なロングショットを挿入し軽く驚かせてもくれる同作は、宣伝チラシにあるとおり「入門として最適」の一篇と言える。
 そのことを踏まえ、こちらも手びきとなりうる一説を披露したいと考えた次第だが、だからといってゴダールが生前マルチバース設定の物語を映画にしていたと主張したいわけではない。そうではなく、ゴダールの映画制作それじたいがマルチバースの物語展開をあらかじめ実演していたかのような時空横断劇だったと指摘したいのだ。
 作品世界への没入感の持続が優先される劇映画においては、基本的にどの場面もシームレスに感じられるのが望ましいとされる。カット割りの多い構成でも、切りかわりが意識されぬくらい違和感なくなめらかに画面がつながってゆけば没入感も断たれにくいことから、シームレスなイメージのつらなりは語りの透明性などと称され評価の対象となる。
 なめらかなつながりに違和感が生じないのは、当のカット割りが伝統的作法に忠実であるがゆえ、観客の大多数にとって見なれた光景になっているからだ。慣習にさからわず行儀よくつくられたものは興をそがず、夢心地のままでいさせてくれるわけだ。だがそれらの切れ目ない夢 ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ は、あまたの事実を隠しとおすことでかろうじて成立するあやうい表現でしかない。映画における伝統的作法とはそもそもジャンルの存立に関わる絶対の規則などではなく、長らく合理的なやり方と信じられてきただけの単なるしきたりにすぎない。もしも映画が真の意味で多様な創造的可能性を追求するものでありたいのならば、ときには夢裏へと誘いながらも同時に覚醒をうながす、積極的矛盾を受けいれねばならない。
 その積極的矛盾として映画(史)に影響をもたらしてきたのがゴダールの監督作だった。つなぎまちがい ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ 、ジャンプカット編集、引用のコラージュ、反復描写、同一状況の語りなおし、見つめあうカメラ、タイトルバックの多用、等々、これらゴダール作品おなじみの形式的特徴は(それぞれすでに一般化した技法として適度な範囲で応用されてもいるが)、どれもが作品の媒介性を強調し、フィクションであることを明示するものだ。一度や二度の気まぐれの試みではなく、この創作姿勢をデビュー時よりつらぬきとおしたゴダールは、なによりもまず映画史上最も倫理的な作家だったと言っていいと思う。
 噓を隠さず、独自性の高い画面構成の連続でひたすらカット間の切りかわりを意識させ、ばらばらな時間と場所をつなぎとめてひとつの場景に見せかける模造品としての現実へと観客を向きあわせることもまた、倫理観の裏うちにほかならない。『ゴダールの映画史』をはじめとする時空横断劇では、過剰なまでにさまざまな映像素材が組みあわされ、つながらない画などこの世に存在しないことの実証実験がくりかえされているかのようでもあるが、いずれにせよそうしたすべてを、目ざめよという呼びかけとして受けとめる者が仮に今後あらわれれば、未知なる宇宙の誕生は果たしてもう一度可能となるのだろうか。

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