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わたしをみじめにさせる人

いるだけで、悪影響。

何も悪いことはしてないけど、みじめな気持ちにさせる人がいる。そしてまさに今みじめな気持ちを感じている自分がいる。他人と比べてはいけないことは重々承知の上だが、それでもみじめな気持ちになるのは、当然のことではないか。他人と比べないことなんて難しい。ましてや、「一番近くにいる人」と比べないわけがない。

アメリカのボストン在住の医師のAbekoです。

日焼けした男

ボストンはジリジリと照り付ける太陽のせいで、通勤だけで顔と腕はもう小麦色に焼けてます。今は研究だけなので、直接患者さん会ってないからいいけど、日本で臨床にいた時に真っ黒に日焼けしてると、上司から「皮膚科医として、日焼けするのはどうなんだ?」なんて小言を言われたりする。

真っ黒こげのサーファー皮膚科医の先輩がそんなことで怒られていたのを、思い出す。日焼けは健康的ではあるけれど、職業柄、模範的な所も見せないといけないから、たしかに怒られるけど、でもまぁ、目くじら立てるほどのことでもないので、怒られ話を酒のつまみにして、その先輩と一緒に笑ってました。

日焼けはシミ、しわ、皮膚がんなどの温床になるけど、日焼けするかしないかは個人の自由です。自己責任でやけどにならない程度の日焼けでお願いします。

みじめにさせる男

今日のはなしは「自分をみじめにさせる人」についてなんだけど、もしかしたら読んでもらっても、本当に伝わるかどうか分かりません。なぜなら、「自分をみじめに感じる時」って自分のバックグラウンドに応じて感じるものだから。

僕の自信のなさやネガティブな感情が反響して、そして共鳴して、みじめと思う感情を生み出したんだと思う。自分勝手な感情だと分かっていても、ここに書き殴りたい衝動に駆られるほど、僕の負の感情は高まってしまったんだと思う。

1日で生じた感情ではなく、蓄積されてきたからこそ、溢れたことにしばらく気づかなかった。

決して悪い男ではない。

世間的にはすごく性格のいい男である。

でも彼は、僕にとっては「僕をみじめにさせる男」だったことに気づいたから、今はすこし距離を置いている、ボストンという日本人の「村」の中で。

日本人の村

ボストンには沢山の日本人がいる。研究所もさることながら、病院や医学部のメディカルエリアがあり、大学や語学学校も多く存在している学術都市のため、いろんな国の人が仕事や勉強をしに留学に来ている。そして中でもアジア人は優秀なのである。その証拠に、他の州ではアジア人は10%前後であるが、マサチューセッツ州、特にボストン市のアジア人の人口は40%近いと言われている。大半は優秀な中国人が占めているが、日本人も他の地域に比べると多い。しかし、日本人が多いと言っても、たかが知れている。

この日本人の集まりを僕は「村」と呼んでいる。

たろう君(仮)

僕がボストンに来たのは、6か月前。

それ以前、僕は都内にある大学病院の皮膚科に勤務しており、そこに「たろう君(仮名)」は4つ下の後輩として働いていた。たろう君は2018年にボストンに渡米し、現在ボストンに住み始めて2年は過ぎていてる。

彼は元々留学経験があり、英語は堪能であった。人当たりもよく、なんでもそつなくこなし、そして怒ることもない男。人懐っこさもあり、ボストンでも色んな人から慕われていた。

ボストンに来てから僕は「たろう君の先輩」であった。誰も何も身寄りもないこの土地で、たろう君の存在は大きかった。渡米したはじめの1週間は、おんぶにだっこの状態であった。

日本にいた時は僕は「皮膚科の経験年数」として先輩であったが、渡米してからは、僕らは「アメリカの医師免許」を持っていないので、研究は出来ても、診療ができないのである。そのため、彼と僕の間には何も差がなかった。

逆に、彼は英語が堪能であり、ボストン歴が長いことから、僕は彼の足かせでしかないし、まるでお荷物だった。それでも一人で住むところを探し、銀行口座を作り、ケータイ電話を開通させて、生活の基盤は自分自身でセッティングした。もともと持ち合わせた冒険心で乗り切った。

コロナ空襲

それでも、その基盤が整ってからすぐに、「コロナ」がやってきた。研究室は病院と併設してあるため、コロナがどれだけの被害をもたらしているか直接情報が入った。瞬く間に何人から何十人、何百人もの患者がこのメディカルエリアに押し寄せて、この大きなメディカルエリアがパニックになっていた。

僕ら研究員は、まるで空襲に襲われたようだった。診療が許可されていない研究員である僕らは、そのコロナ空襲に対して、自宅で3か月間ジッとひとりで耐え忍んでいた、わけではない。そんなことをしたら一人暮らしの僕らは簡単に孤独死してしまう。他の人との接触は禁止されているが、週に1回だけ週末に日本人3人と会った。そのうちの1人がもちろん「たろう君」であった。たろう君の友達がいて30代後半~40代の男女3人であった。僕は35歳。そして、たろう君が最年少の30歳。

5人でプチ日本人会

全部で5人。コロナの間は、この日本人5人で毎週1回だけ会って、ごはんを作って食べたり、公園でフリスビーやキャッチボールして運動していた。

たろう君はいつも一番年下で可愛がられていた。何をしても許されるが、育ちがいいので、わがままを言うこともなく、みんなの意見を受け入れて、そしてよく意見をまとめていた。

あるとき別の友人に誘われてテニスいった時も、持ち前の運動神経で、彼はすぐにラリーが出来るまで上達していた。僕はよくいる初心者レベルであった。彼はゴルフも料理もうまかった。どれもボストンで覚えたらしい。その時は、「何をやらせてもなんでもできる奴だな、すごいな」と思っていた。週に1回の5人日本人会がしばらく続いて、そうこうしているうちに、コロナの脅威が収まってやっと防空壕から外に出れた。

コロナが明けた

仕事が始まり、他にもレストランも開き始めた。英会話グループもオンラインで再開した。ボストンには色んな英会話グループがあるので、僕は可能な限り多くのオンライン授業に参加した。僕はぱっと見インドア派で友達作るのが下手くそそうであるが、案外、積極的に知らない人に会いに行くのは平気であった。基本的に怖がりだが、無謀でもあった。旅の恥はかき捨て精神で、海外では特に無敵状態であったため、コロナ明けからすぐに友達もでき始めてきた。

ある時、「今度、ホエールウォッチング(クジラ)を見に行くんだ」と、たろう君に伝えたところ、


「いったい、どこの友達とですか?」


と、言われた。普通の質問のようであったが、彼は目を丸くさせて驚いていたというより、なんだか少し怒っているような様子でもあった。険しい顔と雰囲気が出ていたので、「英会話グループの…」と答えた。それ以上、何も問い詰められることはなかった。もしかしたら、この日本人5人以外と友達を作ってはいけなかったのだろうか。

ラーメン屋

コロナ明けもこの5人で集まる機会がいくつもあった。その時は隣町の日本人が営んでいるオシャレなラーメン屋に行こうという企画であった。コロナで飲食店は大変なので応援を兼ねて、みんなで食べに行こうということになった。当日現地集合であったのだが、何を血迷ったのか、僕はレンタルサイクルで隣町の現地へ向かってしまった。Google Mapでは30分の道のりだったが、なんと1時間もかかってしまった。迷子になって、途中雨にも降られてしまった。あちゃーとは思ったが、そういうことも楽しめてしまうのだ。

ラーメン屋に着いた時にはみんな集合していて、幸い集合時間より15分遅刻程度であったが、たろう君に「どうして遅れたんですか?」と聞かれて、「ごめんごめん、自転車で来たから。」と言ったら、彼に

「まだボストン慣れてないから、
わからなかったんですね」

と言われた。確かに道はわからなかった。まだ半年もボストンに居ないのでそれは仕方なかった。それにしても、少しひっかかる言い方だな、と思った。自転車でここまで来てはいけなかったのだろうか?遅れたことに怒っているのだろうか。電車で来れば簡単ですよ、みたいな雰囲気であったが、自転車で来た方が面白いのにと、僕は思った。

しかしこのあと、とうとう彼を見限った出来事があった。

会いたい人がいる

あるとき、たろう君に「○○さんとごはんにいきたい」と提案してみた。○○さんはいつかのボストン日本人会でお会いしたことがあった人なのだが、顔見知り程度で、しっかりお話したことがなかった。なので、たろう君に一度ごはんを一緒に食べる機会を作って欲しい、と軽い気持ちで提案してみた。ただ、それだけの理由で言ったのだが、予想外の答えが返ってきた。

「Abekoさん(僕)と○○さんは
きっと気が合わないですよ、やめておきましょう」

それには驚いた。それはお前が決めることではないのではないか?と。急に湧いてきた僕の中の反抗心。そういえば、この反抗心はこの1回ではない。他にも何か似たようなことがあった。覚えていないが、言い方がまろやか過ぎて気づかなかったが、たしかに以前にもあった。これに似た出来事とそれに応じて湧いてきたこの感情をを感じたことがある、たろう君の言動をきっかけに。今回はそれを違和感ではなく、はっきりとした感情で怒りとして認識できたが、その時あえて、僕は何もアクションをしなかった。

そこで改めて考えてみた、たろう君の性格を。

たろう君の性格

この半年で分かった彼の性格は、「めんどくさいことになりそうなことをあらかじめ回避する」性格なのである。危険を察知して回避することは、とても優れた能力だと思う。それは「親」なら、「子」にその能力を備えさせるよう指導するだろうし、「子」が自動的に危機回避できるようになれば、いつも安心であるだろう。彼は一人っ子であり溺愛されて育ったから、親の影響が強く残っていた。だから冒険心も抱かないまま、安全な道しか歩いてこなかったし、そのことになんの違和感も持っていなかった。だから、今彼がその能力を使って、僕を操作し管理しようとしていた。

友達作りも、レンタサイクルも、新しい出会いも、なにもかも、危険そうな新しいことは何も始めなくていいんですよ、と。まるで諭されているようだった。

幼な子のよう

彼は僕を幼い子供のように扱っていたのだ、と分かると、突然ふとみじめな気持ちが生まれてきた。渡米直後にコロナで身動きできない自分に対して、「何もできないのだろう」と高をくくって、思いもよらないことをし始めると注意する。「どこの友達?」「やめなさい」「わからないのね」と。

危ないからやめなさい。

そして、その発言を使って友達同士の中でも「一番年下なのに、よくできる人」という地位に立っているのである。そして僕は危険なことをする人扱いである。ボストンでの安定した生活なんて、くそ食らえだろ。もっともっと行動範囲を広げて、もっと友達を作るべきだろう。

だから、お前には外国人の友達がひとりもいないのだろう?

だから、お前の肌は、いまだに日焼けひとつしていないのだろう?

危険なことは何もしない人。


重鎮と言われる女性

最近、ボストンで重鎮と言われる人に会うことがあった。この人に気に入られたら安泰だなんて言われるくらいの大物のご婦人であった。

ひょんなことから、その人と友達になる機会があり、僕自身がご婦人の誕生日会を提案して、先日開催した。別の友人宅での開催となり、素敵なお宅にご招待されて、本当に仲良くなることができた。年齢も性別も違うご婦人であったが、信頼できると思ってすぐにカミングアウトもすることができた。ご婦人もゲイだとわかったら、「もっと一緒にお話ししたいわ」と言ってもらえた。社交辞令かもしれないが、これが重鎮と言われる所以か。経歴もさることながら、このご婦人の人徳が素晴らしいのだろう。

僕はその会にたろう君を呼ばなかった。

これが僕からの彼への報復であった。

後日、ご婦人がフェイスブックで誕生日会の写真を載せていた、たろう君だけがいない写真を。他の日本人の友人4人が全員写っている写真を載せていた。彼はいったいどんな気持ちでその写真を見たのだろうか。コントロールできていたみじめな僕を、もう今では嫌いになったかもしれない。


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聞こえないものが聞こえた同僚の話です。


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