新チベット仏教史―自己流ー

チベット仏教―アティシャ2-
その1
 チベット仏教に大きな足跡を残したアティシャの周辺には、様々な人が蠢いていました。1番近い存在だったドムトンには、簡単に触れました。この辺のことは、概説書や一般書でも読むことが出来ます。ここでは、あまり注目を浴びていない人物に光を当て、往時の仏教を見てみましょう。
 アティシャがチベットに赴いたとき、チベット仏教には、ドムトン以外にも優れた人材がいました。その1人にクトゥン(Khu ston,1011-1075)という人がいます。もともとは、ドムトンの学友で、ともに仏教を学んだ仲でした。往年の大学者、羽田野伯猷(はたのはくゆう)氏によれば、クトゥンの人物像は、よりはっきりします。羽田野氏は、次のように、述べています。
  クトゥンはドムトゥンとはもともとカムのセツンの下で学んだ同門の旧知であり、当時は衛(えい)における律の四大寺の一つ、タンポチ及びチベットの古刹(こさつ)にして低地(ていち)律(りつ)としては忘れることの出来ぬルメー入住の、カチェの両寺の住持であり、ルメー系の律教団全体の長老として、アティーシャの伝記作家に≪彼より偉大なるものはなかった。≫といわせたように、当時の衛の仏教界に君臨(くんりん)した重鎮(じゅうちん)・実権者の一人であった。(羽田野伯猷「衛へのアティーシャ招請―その背景と歴史的意義―」『密教学密教史論文集』1965,pp.419-420、ルビ私)
かなりの大物だったようです。しかし、『青史』の「アティシャの章」を読むと、印象は全く、異なります。彼は、先ず、このような形で、アティシャの章に登場します。
 〔アティシャに〕お出まし頂くために、赴き始めました折、クトゥンは、彼自身の名前が、文書にありませんでしたので、御不快で、「先に、私が、お目通りしてやろう」と思い、立たれましたから、
このように、自尊心が強い嫌な人物として描かれている。さらに、アティシャの章には、こうあります。
 クトゥンは、アティシャに、〔自〕国の麗しさの自慢を述べましたので、彼の所に、赴くことをお約束なさり、タンポチェにご到着になりました。ラクチクカンパに、1か月、御滞在でした。そこに、ドム〔トゥン〕も、御面前に、馳せ参じたのです。ク〔ゥトン〕は、よき奉仕ばかりも、催しませんでしたから、師弟達は、逃散(ちょうさん)し、ミャンポの渡し舟に、乗り込み、ツァンポ〔川〕の3分の1ほどに至られた時、クトゥンも、後を、急ぎ、来て、大声を発し、〔戻るように〕冀(こいねが)いましたけれども、引き返すことなく、帽子を後ろに投げ、御威光の証しとして、お授けになりました。
アティシャにも愛想を尽かされた様子が見て取れます。相当癖のある人物像が浮かぶます。
 

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