才所丑松

仏教研究者として末席に40年。 6世紀~インド仏教、特にダルマキールティという人物の研…

才所丑松

仏教研究者として末席に40年。 6世紀~インド仏教、特にダルマキールティという人物の研究からスタートし、14,5世紀のツォンカパまでを視野に入れながら、ここ14,5年は倶舎論を中心とした研究に着目し、これまでの研究と結びつける道を探しています。 記事の無断転載禁止です。

最近の記事

仏教余話

その222 最後に、何故、彼がそれほど、注目されているのか、その理由を西村氏の言葉から、聞いてみよう。  一九九八年にローゼンベルクの生誕一一○年目にウイーンから『オットー・オットノビッチ・ローゼンベルクとロシア仏教学における彼の貢献』(Otto Ottonovic Rosenberg and his contribution to Buddhology in Russia)という一書が刊行されている。三十一才で夭折した未完の大器を悼む声はロシアでその後も絶えることがなかった

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      その221 ともあれ、アビダルマ不評論のある中で、ローゼンベルグの取った立場は、その対極にあった。西村氏は、ローゼンベルグ自身の言葉を引用し、彼の思いを伝える。  ヨーロッパでは経典だけに注目し、アビダルマ論書の意義を無視する学者まであったのである。しかしアビダルマに対するこうした否定的見解あるいは誤解に対して、ローゼンベルクは、原始仏教研究はアビダルマ叢書に摂せられている体系的論書即ち、事実上、後期の仏教的組織の根底となっている所謂、長老達の文献を以って始めねばならないもの

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        その220 もっとも、アビダルマに対する、悪評は、今でもはっきりと残っている。例えば、現代の最も優れたアビダルマ学者、櫻部建博士は、一般向けの概説書で、こう述べている。  アビダルマといい、『倶舎論』といえば、しばしばそれは仏教の煩瑣哲学だと評される。たしかに煩瑣で複雑な教義学がそこには盛られている。かつて諸宗の学林で『倶舎論』を学習した若い僧たちは、戯れにそれを「一部始終ガムツカシイ、三度四度マデ聞イテモミヤレ、ソレデ解セズバヤメシャンセ」と歌った(佐伯旭雅の『倶舎論名所雑

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          その219 ローゼンベルグの事跡を概観してきたが、彼は、『倶舎論』などのアビダルマ文献に、何故、あれほど入れ込んだのか。それには、いくつか理由があろうが、1つには、それらの文献に対する評価が、あまりかんばしくなかったことも要因であろう。西村氏の論考により、アビダルマの評判を伺ってみよう。  もっとも当時ヨーロッパにはこうしたアビダルマを軽視もしくは無視する学者もいた。ドイツのドイセン(一八四五―一九一九)は『インド哲学大要』を著し比較哲学の上でも偉大な学者で、わが国の哲学者に

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          その218 昨今、中国撰述の基などの著作は顧られることも、少ないような印象を受ける。私などは、手にしたことも、ほとんどなく、まともに読んだ記憶もない。因習深い、旧式の学問という印象が強く、毛嫌いしていたのである。しかし、ローゼンベルグの時代、ヨーロッパの学者には、宝の山に見えたのであろう。この点について、西村氏は、こう伝えている。  ローゼンベルクもやはり中国の基と普光の注釈に注目した。この点はローゼンベルグ自身、   玄奘は多くの門弟を持っていたが、その中で窺基(K’uei

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          その217 さて、和辻とローゼンベルグに時間を費やしたが、最近、この辺りの事情を伝える論文が草されたので、興味をそそるような記述を、いくつか紹介しておこう。時代の雰囲気や当時の学問動向を知るには、うってつけである。西村実則氏は、ローゼンベルグの身辺を、こう伝えている。  来日したローゼンベルグに親しく接し、しかも氏の身辺の世話をしたのは渡辺海旭であろう。ローゼンベルグの最初の著書『漢・日資料より見た仏教研究序説』は渡辺と共著で出版されているし、渡辺の面倒見のよさ、「功を他に譲

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          その216 藤村操の華厳の滝への投身自殺は、当時、世相を賑わせた有名な事件である。漱石は、藤村操の英語教師であったようで、かなりの衝撃もあったようである。それはともかくとして、ここで、私が注目したいのは、哲学者として著名な和辻の心の奥には、詩魂が宿っているという事実である。後に彼が向かうこととなる「仏教研究」においても、その詩魂はもしかすれば、生きていたのではないだろうか?私がこういうのは、時として、その詩魂は、 仏教研究の妨げとなることもあるからである。漱石の場合も、然りで

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          その215 少々、仏教の話題とはずれるが、哲学者和辻を育んだ様子を、紹介しておこう。何度もお世話になった今西博士の著書に、随分と興味を引く記述がある。以下の如し。  『自叙伝の試み』によると、当時の和辻哲郎は「バイロンのような詩人になりたい」という願望をもっていた。…明治三十六年五月、藤村操が華厳の滝に身を投じた事件は、中学三年の和辻少年にも深刻な衝撃を与えた。藤村は「万有の真相は唯一言にして悉くす、曰く『不可解』。我この恨を懐て煩悶に死を決するに至る」と「厳頭之感」に記して

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          その214 ただ、当時の『倶舎論』学者が、伝統的な解釈に、疑問を抱かなかったか、というと、そうでもない。先に、名を出した船橋一哉博士の、恐らく、祖父に当たるであろう船橋水哉博士は、明治39年の出版物において、こう述べている。 現今では恐らく倶舎論の要旨を真正に書いた者は一つもない、 之は予の断言するに憚からざる所である。思うに之が欠陥の原罪は蓋し 〔中国の注釈家〕泰光寶の三家であろう、見よ彼等は精細に倶舎論に註解を施した、而も何故に世親の奥旨を発揮せざりしや、唯有部の教義を精

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          その213 内容はかなり難しいので、理解困難な箇所も多いと思うが、要するに、前に述べたように、「法(ダルマ)とは、何か?」という仏教の根本問題に関する意見を開陳しているのである。引用文中で、和辻は、「ローゼンベルグはかかる発展の唯一つの段階に立って凡てを理解しようとしたがために」とか「この歴史的発展の段階を顧みずして法の概念を全仏教哲学に規定しようとするのは、畢竟徒労に終わらざるを得ぬ。」と述べて、ローゼンベルグの視野の狭さを指摘する。またローゼンベルグを評して「この年少にし

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          その212 ともかく、何かと物議を醸し出すが、赫々たる名声を誇った和辻は、口を極めて、ローゼンベルグを批判している。 少々、長く難解かもしれないが、あまり眼に触れる機会もない論文だと思われるので、そこから、和辻の文を引用してみよう。  仏教哲学の体系を法論(Dharmatheorie)として解釈しようとする試みは、現代ヨーロッパに於いては、ロシアの仏教学者ローゼンベルグ(Otto Rosenberg)及びチェルバキー(Th.Scherbatsuky)によって代表される。ローゼ

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          その211 視野を広げるという意味で、先の縁起論争に関するやや特異な見解を、紹介だけしておこう。これなどは、むしろ、私の考えに近いかもしれない。湯浅泰雄氏は、こう綴っている。  大正末年から昭和の初めごろ、宇井伯寿・和辻哲郎の両氏と木村泰賢・赤沼智善氏らの間で、縁起説の解釈をめぐっての論争が行われたことがある。私はインド学には素人であるが、和辻から倫理学を学んだ関係でこの論争のことも自然に知るようになった。要点をいうと、宇井・和辻説は十二因縁を論理的相関関係の説明であると解釈

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          その210 既に、無我と非我の相違を巡る議論の奥深さを知っている我々からすると、和辻の議論も、どこか宙に浮いたように見える。ブッダが、形而上的議論を回避したとするならば、何故、超形而上的な「法」解釈を持ち出すのだろう。首尾一貫しない。ブッダが形而上学的議論を嫌ったという伝承さえ危ういのである。それは、弟子の舎利弗の思想であって、ブッダのものではないのかもしれないのである。この辺りの不可解さは、先に見た。ここで、和 辻の解釈を批判した、松本史朗博士の意見も見ておきたい。松本博士

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          その209 実は、ローゼンベルグは、当時、一流の学者からは、手酷く、批判されていたのである。その学者とは、和辻哲郎(1889-1960)である。『古寺巡礼』などの著作で、今も名高い一代の傑物であるので、ご存知の向きもあるだろう。和辻は、最初、ニーチェなどの西洋哲学を研究していたが、後に、仏教研究に移り、大いに、学界を刺激したのである。漱石とも親交があったようである。和辻の仏教学への参入を記して、京都の学者一族の出である船橋一哉博士は、次のように述べている。  わが国において原

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          その208 この惜しまれて亡くなった学者の最後の様子だけ、簡単に伝えておこう。師シチェルバツキーの記録からである。  ユデニッヒ将軍によるセントペテルスブルグ包囲の最中、ローゼンベルグは、からくも、セントペテルスブルグを脱出した。そして、この軍の退却時に先ず、エストニアに避難し、更に、フインランドに避難した。そこから、アメリカ経由で日本に行こうとした。そうすれば、彼の仕事が続けられるはずだった。この難局の結果、彼は猩紅熱にかかり、1919年11月26日に死去した。彼の最後の時

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          その207 ローゼンベルグ自身こう日本留学の意義について述べている。  私に課せられた課題は、…日本に於ける宗教的及び哲学的文献の研究、特に、仏教の生きた伝統の精通を包括し、以ってこの伝統がインド仏教並びに印度の宗教と哲学の研究に対して有している意味を確定することであった。(『仏教哲学の諸問題』O・ローゼンベルグ、佐々木現順訳、昭和51年(1976)p.3) また、こうもいう。  上述した如く、典拠として役立ったものは日本文献と生きた伝統及びその援助によって完結した仏教哲学の