新チベット仏教史―自己流ー

その4
I〈クトゥンの略歴〉において、彼が学んだ「アビダルマ」について、羽田野氏はこう述べています。
 諸記録は一致して、〔クトゥンの師ガルミ〕彼が《阿毘達磨Mnon-pa》〔アビダルマ〕に精通し、Khu-ston〔クトゥン〕をはじめとする多数の子弟を出したという。…通常この場合の《阿毘達磨》とは、『大乗阿毘達磨集論』を指すものとして取扱われてきた。…換言すれば、『現(げん)観(かん)荘厳論(しょうごんろん)』(または同系の般若論典)との関係において、これら3部の論書〔『摂(しょう)大乗論(だいじょうろん)』・『大乗阿毘(だいじょうあび)達磨集論(たつましゅうろん)』・『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』〕が、Rgyab-chos〔裏付の法、背景的依拠の論典〕として、《阿毘達磨大乗》もしくは《阿毘達磨たる大乗書》の意味をもっていたのであろう。…以上のように《阿毘達磨》を解することによって、Gar-mi〔ガルミ〕やKhu-stonが何故《阿毘達磨》に善巧であったのかの理由もしくは意味が分明する。…かような法を携えて、Gar-miがAtisaより既に20年以前に衛に〈Chos-grva法(ほう)筵(えん)〉を解説したことは、チベット仏教史上看過(かんか)しえない、しかも忘れられていた、重要な事象といわねばならない。(羽田野伯猷「カムの仏教とそのカーダム派並びに衛蔵の仏教に与えた影響について」『羽田野伯猷 チベット・インド学集成』第一巻、 チベット篇I、昭和61年所収、pp.223-225,ルビ・〔 〕私)
このような指摘を見るにつけても、クトゥンの学識が高度なレヴェルにあったことが伺えます。それは、一面アティシャを凌ぐほどのものであったらしいのです。羽田野氏は、さらに、それを裏付けるような記述を残しています。以下のようなものです。
 たとえば、Than-po-che〔タンポチェ〕にAtisaを招いて法輪を転じた場合にも、Atisaの聴講者は、Khu-stonのそれに比し数分の一にすぎなかった。…Nag-tsho〔ナクツォ〕翻訳官も「Atisaは補足的作法と帰依・発心などには精しいが、宗典においてはKhu-stonが善巧である」とKhu-stonを承認したのもあながちKhu-stonの権勢に媚びた発言とはいい難い。…Nag-tshoのいうようにAtisaは註釈学的学解には必ずしも巧みではなかったらしい。Atisaにおける問題は、法の精要を如何に把握し、如何に修習するかにあったといってよい。いずれにしてもKhu-stonはAtisaの所立を批判、論難的態度において、顕教関係(mtshan-nid)の法を釈説し、なかんずく、般若(Aloka,Sphutartha,etc.)Abhidharma-samuccaya〔『阿毘達磨集論』〕などに秀でていたといわれる。(羽田野伯猷「カムの仏教とそのカーダム派並びに衛蔵の仏教に与えた影響について」『羽田野伯猷 チベット・インド学集成』第一巻、 チベット篇I、昭和61年所収、pp.220-221,ルビ・〔 〕私)
同時代の人々が、上のような捉え方をしているとなると、クトゥンの実力、そしてチベット仏教界の力も相当なものです。一体、顕教的な面で、アティシャを招来する必要があったのかということさえ、疑わしくなってきます。先に、アティシャの学識にも言及しました。それを考えるにつけても、アティシャのチベット来訪の意味を再考しなければならないでしょう。

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