日本人の宗教観ーある観点ー

その3
以下にもう1つ、印象に残る古い話を、三崎氏の著書から引用しておきましょう。
 『撰集抄(せんじゅうしょう)』七ノ二の次の物語は、”煩悩即菩提”のタームに衝撃を受けて、…”人を生かす力としての妙法(みょうほう)”を美に向けて思い知る実例であると見なすことができよう。(大意) 帥(そち)の大納言(だいなごん)経(つね)信(のぶ)は「すき人」たちと西山の花見に行ったときに、帷(かたびら)一枚で坐禅している僧を見掛けた。種々問うても僧は答えず、逆に「人々は何とて来るぞ」と訊かれて、「われ花を見に来たれり」と言うと、僧は「我もしかなり」と云う。これは「深く思ひ人たる人ならん」と思われたので、「法文(ほうもん)の、心を晴るけぬべき、のたまはせよ」と求めたら、「煩悩即菩提、生死卽涅槃」と誦(じゅ)した。その意味を問うに、日頃の闇も晴るるばかりであり、「もとどりおろして同行(どうぎょう)とやならましと覚(おぼ)ゆる程」に感動して、そのまま夜もすがら法文を問い、夜明けて別れを告げる悲しさに、

   なきてぞ帰る春の明ぼの
と言うと、僧は、
 又もこむ秋をたのむの雁(かり)だにも
と付句(つけく)をしたので、一層思いをまして帰った。僧は花見に来たのに瞑目打座(めいもくだざ)している。これが”煩悩即菩提”の生き方なのか。一撃された思いで経信は仏法の真義(しんぎ)に惹かれていく。別れの惜しさに短句(たんく)を供すると僧はすかさず長句(ちょうく)を付け合う心得もある。しかも、春の別れには秋の再来が頼みとなるのが世の常だが、それも雁(仮り)のおとづれであり、…花や詠作(えいさく)の”美のはかなさ”を示しながら、仮りのものを追いつつ生きる人々の”菩提(ぼだい)涅槃(ねはん)を求めている煩悩(ぼんのう)生死(しょうじ)の只中(ただなか)に菩提涅槃が現前(げんぜん)している”という道理を踏まえた逸話(いつわ)だと言えよう。…そこで明らかにすべきことは、”煩悩即菩提”とは「相反する概念がじつは等一だ”という論理に思われがちであるが、じつは、煩悩に苦しみながら菩提を実現していこうとしている一つのいのちの現実態―それ以外ではありようもない人間の生き方、実相―を抉摘(けつてき)しているのである。そのような生きる態度の決定は発心(ほっしん)であり慈悲(じひ)心(しん)によるが、そのような心源(しんげん)に直(ちょく)入(にゅう)する契機の一つに美的感動というものを提示しているのが経信の逸話である。(三崎本、pp.135-136、ルビはほぼ私)話の内容は、理解しやすいでしょう。本覚思想のキャッチフレーズ「煩悩即菩提」「生死即涅槃」は、解釈するのには少々難しい面は残りますけれど、こうした逸話(いつわ)でも語られるほど、人々の間で広まっていったのです。次に、芸術=本覚思想を高らかに宣言した、ある歌人のことを述べてみましょう。またも、三崎氏の著書からの引用で始めて見たいと思います。
 日本の芸術史において、”最後的なものは悟るほかはない”と歴然と言いだした最初の理論的提唱者は、藤原(ふじわら)俊(しゅん)成(ぜい)(1114-1204)であり、それは1197年の『古来風躰抄(こらいふうたいしょう)』においてであった。それゆえ”さとりの美学”の実質的解明は、俊成のこの言明をまず分析する必要がある。…”心”は俊成によれば、天台止観におけるように、あらゆるものごとの究極の意義をひとりでに解明できるような”ものの心”にまで達しなければならない、とされたのだ。それによってこそ、和歌という芸術に専念することは仏道に通う、と信じられたのであった。…「この道に心を入れん人」は、最終的には、歌の本来の在り方と、自分が今決めるべき本来的生き方との、両方に気づくようになれるはずである。だが、そういうことこそ、まさに仏教によって人生の真実義を目ざしたことになるわけであろう。・・・かくして俊成は言う。
 このやまとうたの深き義によりて、法文(ほうもん)の無尽(むじん)なるを悟り、往生(おうじょう)極楽(ごくらく)の縁を結び、・・・詠歌(えいか)のことばをかへして仏を賛(ほ)め奉(たてまつ)り、法を聞きて普(あまね)く十方(じゅつぽう)の仏土(ぶつど)に往詣(おうし)し、まづは娑婆(しゃば)の衆生(しゅじょう)を引導(いんどう)せんとなり。(略)この願いはまさしく、”仏教的な芸道論”を宣言するものである。即ち芸術は仏道に通ずることによって、はじめて存在理由を全(まっとう)うする、という思想である。しかしそれは、俊成がたまたま従順な仏教徒であったがゆえに、おのが歌道を仏教に結びつけた、という程度の”偶発的で個人的なもの”ではないのである。(三崎本、pp.248-250、ルビ私、1部標記変更)
おおよその意味はわかるはずです。古文の個所もルビを振っているので、大体の内容は察しがつくでしょう。大事な点は、藤原俊成という歌人が、はじめて明確に、本覚思想あるいは止観的美意識と和歌を一体化したことです。本覚思想が人々に浸透(しんとう)していく中で、その位置付けをはっきりと意識し、自著『古来風躰抄』で明言した事実は、極めて重要ですが、1部の専門家等が知っている位で、現代人にはほぼ忘れられています。前回述べたように、今の日本人の中にある「自然との一体感」は、俊成達が苦心(くしん)惨憺(さんたん)して生み出していったものなのです。このことは、心の中に深く留めておいて欲しいと思います。
 さて、俊成の周辺の事にも触れておきましょう。俊成の四歳下に、前にも紹介した西行(さいぎょう)がいます。彼も、本覚思想の濃密な影響下にありました。その様子を三崎氏は、こう伝えています。
 西行は頼朝に歌道の極意を問われて、詠歌者、対花月動感之折節、僅三十一文字許也、全不知奥旨(吾妻鏡、以下略)(私訳、歌を詠ずるとは、花や月に向かって感動した時、たった31文字しか使えないものだ。その極意は全くわからない)と答えたという。西行にとっては、歌の極意(ごくい)の悟りとは、日常から遠いかなたの彼岸(ひがん)にあるのではなくて、かれの見たり聞いたり触れたりする仮のもの自体の存在圏域(けんいき)が、すなわち歌を生む源泉なのである。ということは、かれの生きるところ、そこにこそ悟りが開かれ、そこが歌を生んでこの世に贈ってくれるのだからである。かれは俗人として生きるのではなく、出家してこそ初めて生きるのだから、この世界の方が全く意味転換してくれるのである。
惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をも助けめ(『山家集』以下略)人はこの世に愛着することはあっても、人からは惜しまれないでいるこの世であろうか。しかしそういう世に生きることは、身を捨ててこそ可能なのだ。身を捨てないでいることは、かえって、この世を惜しむ自分を助けていないことになるのだ。出家して世を捨てる方が、この世のよさを知った生き方なのだ。・・・西行の心はこのように常人と反対である。だからかれの心が歌えば、その歌は天然法(てんねんほう)爾(に)の美をひびかすのだ。これがかれの美学であった。(三崎本、p.263、( )内の現代語訳、ルビは私)
西行は、「世間を疎(うと)んじ、出家を礼賛する」変わり者にしか見えません。しかし、その背後には当時勃興(ぼっこう)し、俊成が打ち立てた「歌道=仏道」の大テーゼがありました。そして「煩悩即菩提」「生死即涅槃」のキャッチフレーズが彼自身を深く納得させる風潮が存在したのです。今で言えば、時代の最先端をいくアーティストなのです。西行にはそういう自覚があったでしょう。だから、苦悩も人一倍深かったのでしょう。三崎氏は、そのような西行を讃えて、次のように言います。
 仏教は何事にも染着(せんじゃく)することを排するかと思われるのに、西行は…心を美に染めることによって悟りに向けることができたのだ。だからこそ、彼の歌詠(かえい)は仏道(ぶつどう)成就(じょうじゅ)であり、往生(おうじょう)安楽(あんらく)国(こく)になるのであった。和歌は常に心すむ故に、悪念(あくねん)なくて、後世(ごせ)を思ふも、その心をすヽむるなり。・・・一向(いっこう)浄土(じょうど)を求むるに、和歌好みし心にて道を好めば、まことに心ちらず、やすかりける。(西行上人談抄、以下略)〔私訳、和歌はいつも心が澄み渡るので、悪い思いはない。死んだあとのことを心配する者にもその和歌の心をすすめる。一筋に浄土を求める場合、和歌を好む心で、修行も好きになれば、本当に心は散漫にならず、落ち着いているものだ〕やみ晴れて心の空にすむ月は西の山辺(やまべ)や近くなるらむ(観心、以下略)〔私訳、悪い心の闇を払って澄んでいる心に月が見える。そのように月を写す心は、西にある浄土に近づくものだ。まるで月が西の山に傾くように〕かくして西行が和歌を励んでしかも涅槃(ねはん)の日を期して入滅(にゅうめつ)できたことを、われわれは単なる好運と見なすことはできないのである。心なき花月にかえって人心の迷(めい)蒙(もう)を救われ、本然(ほんねん)の心を自然(じねん)なる法界(ほっかい)美(び)に遊ばせた西行の自在境(じざいきょう)は”さとりの美学”の一大典型である。(三崎本、p.266、〔 〕内の現代語訳は私、ルビはほぼ私)
ここで、もう1つ本覚思想の標語を見ておきましょう。それこそ、本覚思想の究極的な到達点を示すものかもしれません。「草木(そうもく)国土(こくど)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)」と言います。つまり、人間のみならず、山や川、草木まで仏に成るという考え方です。徹底的な現実肯定論ですが、すべては仏の世界と見なす本覚思想の行きつく果ては、この標語あるいはキャッチフレーズなのでしょう。この言葉は、能の世阿弥(ぜあみ)(1363-1443?)にも積極的に取り入れられました。その様子を三崎氏の著書から引用してみましょう。
 世阿弥の作『鵺(ぬえ)』の中で…ワキ 一仏(いちぶつ)成道(じょうどう)観(かん)見(けん)法界(ほっかい)、草木(そうもく)国土(こくど)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)。シテ有情非情皆倶(うじょうひじょうかいく)成仏(じょうぶつ)道(どう)、ワキ頼むべしシテ頼むべくや(略)と謡われる場面がある。即ち、一仏(いちぶつ)が成(じょう)道(どう)して法界(ほっかい)を観見(かんけん)するならば、草木(そうもく)国土(こくど)悉(ことごと)くみな成仏するのだ。頼み願わねばならない、と讃えているのである。(三崎本、p.497、ルビは私)
難しい仏教用語が、能に散りばめられています。その中心となる語が「草木国土悉皆成仏」です。では、この語はどのようにして、人々の間に広まっていったのでしょうか?三崎氏の著作には、その様子を示すような話が記されています。以下のようなものです。
 草木成仏の思想が普及するようになる決定的転機は、良源(912-985)の応和(おうわ)の宗論によると思われる。この宗論が広く人心を刺激して語り伝えられたことの証拠として、後世の『太平記(たいへいき)』…の記事を挙げておくことが妥当だと思う。それは、応和元年(961年)、横川(よかわ)の慈(じ)慧(え)僧正(そうじょう)が、興福寺(こうふくじ)の仲算已(ちゅうさんい)講(こう)…と清涼(せいりょう)殿(でん)に召されて、村上天皇の前で草木成仏につき宗論を闘(たたか)わしたという話である。それによると〔興福寺で説かれる〕法相宗(ほっそうしゅう)では、衆生(しゅじょう)〔人々〕に成仏する者としない者があって、一切(いっさい)有情(うじょう)〔すべての心を持つ者〕は、不生(ふしょう)不滅(ふめつ)〔永遠〕の実相の妙(みょう)理(り)(理(り)仏性(ぶっしょう))〔理屈上の仏性〕を具(ぐ)するけれども、如来(にょらい)の四(し)智(ち)を具えること(行仏性)〔修行で得られる仏性〕がなければ成仏しない、と説く。それに対して、慈慧は、「有性〔心ある者〕も無性〔心なき者〕も斉(ひと)しく仏道と成る」とか「一草一木各(おのおの)一つの仏性という因果から成る、山河大地も同一の仏性の故に…理仏性を具えることが許される。遂に成仏が無い時には、何をもって、仏性か」と説いたという。仲算は「草木成仏の子細は無い、非情〔心なき者〕までも論じることはあってはならない。先ず自身の成仏の証拠を顕してもらわないと、何をもって、疑いを晴らすのか」と逆襲した。すると慈慧は忽(たちま)ち仏身に変じ、大光明(だいこうみょう)が十方(じゅっぽう)に遍(へん)照(じょう)し、南庭(なんてい)の冬木(とうぼく)が俄(にわ)かに花開いた。仲算は「止めよう、止めよう。説くべきでなかった。我が法は微妙で思惟し難い」との法華経(ほけきょう)の偈(げ)を誦(じゅ)した。門に繋(つな)がれた牛は涎(よだれ)で、

  草も木も仏になると聞く時は情(こころ)ある身のたのもしきかな

 と書いた。…こういう話である。…右の逸話は、草木成仏論が、単に理論として討議されるに留まらずして、成仏の実践を問題にした点に特色があると思う。(三崎本、pp.505-506、1部標記変更、〔 〕内・ルビ私)
幾分、分かりやすくしたつもりですが、常識的に考えると「山川草木悉皆成仏」など肯定できかねるというのが、正直なところでしょう。しかし、昔の人々はそれを信じ、その世界観・自然観で生きていたのです。再三繰り返しますが、このような思想は現代人の中にも、存在します。というより気づかぬまま、DNAの如く伝わっているのです。その証拠として、現代に生きるアーティストの言葉を示してみたいと思います。
 一切の衆生(しゅじょう)はことごとく仏性(ぶっしょう)を有する」。この言葉の意味がインドの大地からまるでクンダリニーのごとくトグロを巻いた火と化して脳天を突き上げるように上昇してきた。人は生まれながらに悟っている。何ひとつ手を施す必要など一切ないのである。…ブッダが悟ったのは真理である。われわれ一人一人はブッダの子である。だからブッダの歩んだ道を進むべきかもしれない。数限りもなく繰り返した転生(てんしょう)の果てに、われわれはいずれブッダになる運命にあるのだ。われわれは今そのプロセスにある。(横尾忠則「ブッダとの出会い」『現代思想 臨時増刊 総特集 インド文化圏への視点』1977,vol.5-14,p.69、ルビ私)
これを、始めに紹介した『平家物語』の一文と比較して下さい。
仏も昔は凡夫(ぼんぶ)(=ただの人)なり、われらも終には仏なり
何れも仏性(ぶっしょう)具(ぐ)せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
この言葉も現代のアーティストの言葉も、瓜二つです。2つとも、まさに本覚思想そのものです。これで昔々花開いた思想が、今日まで脈々と伝わっていることが、若干、納得頂けたことと思います。次回も今少し、本覚思想について見ていきたいと存じます。同じく、古文や和歌等を使うので、馴染(なじ)みにくいところはあると思います。その点は、今回同様、昔の言葉遣(づか)いに慣れるためであると、ご了解願います。

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