仏教余話

その171
さて、漱石とサーンキャの関係に戻ろう。今西博士は、まず、サーンキャ思想の概略を述べて、次に、『草枕』と『金七十論』等との比較を行う。ちなみに、サーンキャ学派とヨーガ学派は、姉妹学派とされ、両者の結びつきは強い。ラフにいえば、以下で略述されるサーンキャ思想は、ヨーガ思想でもあると、考えてよい。では、今西博士の所論を聞こう。果たして、皆さんには、説得力をもって、響くだろうか?長いので分けて引用しよう。

 ここで取り上げる『金七十論』は真諦三蔵によって六世紀に漢訳された。本書は『サーンキヤ頌』(Samkyakarika)〔サーンキャ・カーリカー〕という韻文の原典と、それに対する注釈書の翻訳である。韻文のサンスクリットの原典はインドの哲学書の中でも傑作に数えられる文献であり、種々のサンスクリット語の注釈書と共にサンスクリット語の原典が残されている。しかし注釈書である『金七十論』のサンスクリット原典は今日まで発見されておらず、漢訳でのみ伝わっている。ただし思想の内容そのものは他のサンスクリット注釈書から知られるところと殆ど相違しない。まずサーンキヤ哲学をかいつまんで紹介するならば、二元論哲学であることが第一の特徴である。その二元は、一応は、精神と物質と言ってもよいが、通常言われている精神と物質とは異なる。万象を創り出す原理を根本原質(pradana,prakrti)〔プラダーナ、プラクリティ〕 というが、これは人間の肉体を含む物質世界はもとより、感覚器官(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)、作業器官(手・足・発生器官など)、さらには心までも産み出す。もっとも心とは言っても、これは細分されていて、三種に分かれる。すなわち
(一)   人格の統一を可能にする判断決定の能力をもつところの思惟機能(buddhi)〔ブッディ〕
(二)   「われ」とか「わがもの」などの意識を可能にする自我意識(ahamkara)〔アハンカーラ〕
(三)   思惟機能と感覚・運動器官を媒介するマナス(manas、意)
 とである。そして根本原質から思惟機能が生じ、思惟機能から自我意識が生じ、さらに自我意識から感覚・作業器官、マナスならびに五元素等の物質が生じる。これらによって、内的であれ、すべての現象変化する世界が成立していることになる。今日一般の観念によれば、以上の中に精神(理性)と物質を認めることが可能であろう。しかるにサーンキヤ哲学ではこれらは一まとめにして、根本原質のもとに置かれる。従ってこれを単に物質的と呼ぶのは適当ではない。むしろ現象変化の領域全体を包含するものである。これに対して純粋精神(pursa、神我、人我)〔 プルシャ〕が立てられる。これが真実の自己である。すでに知覚や判断などは思惟機能や自我意識、意(マナス)の働きに属するのであるから、純粋精神はその外に立つことになる。すなわち判断決定、意思などのすべての心的現象に直接関与せず、それらに対して、究極の主体としてこれらの現象を第三者的に眺める「鑑賞者」である。以上のような二元論であるから、純粋精神そのものは人間の判断や意思などにおいて現れ出ることはない。判断その他の心的諸現象は日常的な意識からすれば、まさに「自己」そのもの、あるいは自己に属するもの、と考えられているが、それらはすべて根本原質に起因するのであるから、真の自己ではありえない。それのもかかわらずそれを真の自己であると見なしているから、人は真の自己ではないものを自己と思い煩っていることになる。これに対して、それらの心的現象がなくなった時に、はじめて真の自己としての純粋精神の存在が自覚される。心的現象が無となるのは以上の知識・哲学とヨーガ・瞑想においてであるから、純粋精神は知識と瞑想において到達されるものである。…


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