仏教余話

その200
宮本啓一博士は、サンジャヤについて、こう述べている。
 彼は「来世はあるか」との質問に、「もし私が『来世はある』と考えたなら、あなたに『来世はある』と答えるであろう。しかし、私はそうだとは考えない。そうかもしれないとも考えない。それとは違うものだとも考えない。そうではないとも考えない。そうではないのではいとも考えない」と答えたといいます。彼は、形而上学的な事柄について質問されたときには、いつもこのように答えました。この議論は、どうにも捕らえどころがないものであるため、「鰻論法」と名付けられました。いわゆる判断中止によって心の平安を得ようとしたものと思われます。(宮本啓一『インド人の考えたことーインド哲学思想史講義』2008,p.60)
そのサンジャヤの弟子であったのが舎利弗なのである。高木博士は、以下のような興味深い記述をなしている。
 仏教が始めて〔「~がある」・「~がない」・「~がありまたない」・「~は表現出来ない」という〕四句分別の論理を採り入れたのは、サンジャヤかあるいは彼をも含めた懐疑論者たちからであったろう。この点に関して、詳細な論証がすでに宮本正尊博士によっておこなわれている。そこでは、仏教の四句分別にサンジャヤの不可知論の影響を認め、しかも中観派の空の論理がサンジャヤの所説とそれ程距ったものではないことが指摘されている。その場合、舎利弗の先師が不可知論者のサンジャヤであったとすれば、仏教がその説を採用したのは当然、舎利弗を媒介としてのことであったろう。われわれはこの他にも、さきに見たサンジャヤの所説のゴータマ仏陀の無記説と軌を一にする思潮を読み取ることもできる。言うまでもなく、無記説の根底には形而上学的な知のみの追求は涅槃にとって利益なく、単なることばの虚構にすぎぬとする立場がある。…こうした不可知論の根底には人間の経験と認識の主観性、知識は有限で一面的なものにすぎぬという相対的論理への志向があったと思える。そうした点で、サンジャヤの不可知論、ジャイナのスヤードヴァーダ説〔=相対論〕、仏教の四句分別は同じ思潮に属するものとみることもできるであろう。(高木訷元「舎利弗の帰仏」『初期仏教の研究 高木訷元著作集3』平成3年所収、pp.97-98,〔 〕内私の補足)
先に一瞥した「無記」の考え方が、サンジャヤ由来のものだとすると、それが、果たして、ブッダの真意なのか否か、大いに戸惑う。しかし、「無記」的解釈をもって、ブッダの真意とし、それこそが仏教の精髄とする人々は、確かに多い。しかも、それが空の論理と一脈通じているとなると、問題は更に複雑化する。私自身の考えは、度々述べたように、「正統的仏教は非論理的な理解は、一切、行わない」であるから、無記的解釈を容認するような
発言は、首肯出来かねる。しかし、そのような思想的系譜が存在していることは、事実であり、それが舎利弗経由だと見るのは、あながち、間違いでもない、とは思う。


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