仏教余話

その214
ただ、当時の『倶舎論』学者が、伝統的な解釈に、疑問を抱かなかったか、というと、そうでもない。先に、名を出した船橋一哉博士の、恐らく、祖父に当たるであろう船橋水哉博士は、明治39年の出版物において、こう述べている。
現今では恐らく倶舎論の要旨を真正に書いた者は一つもない、
之は予の断言するに憚からざる所である。思うに之が欠陥の原罪は蓋し
〔中国の注釈家〕泰光寶の三家であろう、見よ彼等は精細に倶舎論に註解を施した、而も何故に世親の奥旨を発揮せざりしや、唯有部の教義を精細にし且つ少しく自家の意見を加へたに過ぎない、それでは倶舎論の註解としては何となく物足らなぬ感がある、此の如くして倶舎論の奥旨は現今まで遂に明瞭にされなんだのである。勿論倶舎論の書き方が余りに巧妙にして其旨趣を了解するに苦しむ点もないではない、されど彼等が訓古的研究の結果として充分に其置く旨を発揮するまでには至らなんだことが、蓋し世親の
教義を曖昧模糊の裡に埋没した者である。(船橋水哉、『倶舎哲学』明治39年、pp.3-4)
舟橋水哉の『倶舎哲学』は明治39年の刊行である。ローゼンベルグの日本到着が明治45年だから、時代は接近している。そして、漱石も、同じ明治の人である。かくも、複雑怪奇な仏教事情を孕んでいるのが、明治という時代なのである。その時代に生きた人々は、相当刺激的な環境にいたと思われる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?