新チベット仏教史ー自己流ー

その6
セルリンパがアティシャにとって別格の存在であったことは、『カダム明灯史』の以下の記述から伺えます。
 アティシャにラマはたくさんいても、他のラマ対して法要はなさいませんで、セルリンパに壮麗な法要を毎度欠かさずなさいました。
しかしながら、アティシャとセルリンパの思想は、全く同一というわけではありませんでした。難しい言葉が続く一文ですが、以下に引いておきましょう。『カダム明灯史』からの引用です。
 ラマ・セルリンパは見解を唯心(ゆいしん)形象(けいしょう)真実(しんじつ)に取り、〔別の師〕シャーンティパは形象(けいしょう)虚偽(きょぎ)に取り、アティシャご自身は無住中(むじゅうちゅう)観(かん)に取りました。中観の秘伝と説いたのはそれなのです。ラマ・セルリンパは「一切法無自性と主張するのは、過誤である」と算段いたしましたので、アティシャに対しても、「汝のような智慧大なる者でも見解をそのよう〔唯心形象真実のよう〕に理解することは、甚だ(はなはだ)稀(まれ)なのである」と何度も何度もおっしゃいましたが、アティシャが、中観のその見解に後に惹かれたことは大いにあったという話です。ラマ・シャーンティパは般若を説明する際、〔昔の著名な〕師ハリバドラが八千頌(はっせんじゅ)大注(だいちゅう)において中観であると解説するのをわかる範囲で1つづつ否定して説明しました。〔そこに〕おいて、〔アティシャ〕自身の中観の真実が判然としたようです。瑜伽(ゆぎゃ)行中(ぎょうちゅう)観(かん)は大いに、確信となりました。
セルリンパは「一切法無自性」を標榜(ひょうぼう)する中観派を嫌い、心の実在を説く唯識派を高く評価したのに、その師の考えに同調せず、アティシャは一切法無自性を説く中観派に傾倒したということのようです。言葉の解説をしておきましょう。「形象」というのは、心に現れるイメージのことです。そのイメージを真実とするか虚偽とするか対立があったということを伝えています。難しい話なので深入りはしませんが、現代の学界でも注目される問題です。
また、上では、無住中観とか瑜伽行中観とか色々な中観が出てきます。中観には様々な分類があります。中観至上主義のチベットでは当然のこととも言えますが、それぞれの思想的内容については、わからないことがたくさんあります。アティシャの実態を探るためには、多くの課題があることを知ってもらえばよいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?