「倶舎論」をめぐって

CIV
室寺氏の指摘にも、一理ある。ただ、当時の学界事情は、複雑で、今日のような学派分類をどの程度適用出来るのか、未知な部分は多い。従って、中観の影響を看過することも、危ぶまれる。時代は、300年ほど後の、アティシャ(Atisa)という人物周辺のことだが、恐らく、学問習得の雰囲気は、善慧戒の頃と変わらないであろう。その状況を伝える見解を紹介しておこう。
 井内真帆・吉水千鶴子『西蔵仏教宗義研究 第九巻―トゥカン『一切宗義』「カダム派の章」-』2011は、11世紀頃の状況を、以下のようにいう。
 アティシャは、後代史書の中ではインドから来た権威であり、仏教再興の象徴として描かれる。〔有名な学問寺〕サンプ僧院を含め、すべての伝統がアティシャに結び付けられている。しかし、彼がチベットへもたらしたものは本当は何であったのか。彼の教義には、中観思想、瑜伽行唯識思想が融合し、最高位に「大中観」dbu ma chen poという如来蔵思想や密教にも通じるテーゼが説かれていることはよく知られている。それは彼の師であるラトナーカラシャーンティRatnakarasanti(ca.970-1030)等から受け継いだ〔インドの〕ヴィクラマシーラ僧院の教義であったのだろうか。アティシャ自身の歴史的思想的背景をいま一度掘り起し、チベットへ与えた影響と共に再考していくことにより、多様な仏教学説の融合と総合的な学問体系の構築を特色とするこの時代のインド・チベット仏教が、より鮮やかな姿で浮かび上がって来るであろう。チベット仏教研究は、その教学形成がなされたカダム派の時代の解明にむけて、新たな舵を切った。( 井内真帆・吉水千鶴子『西蔵仏教宗義研究 第九巻―トゥカン『一切宗義』「カダム派の章」-』2011.,pp.8-9、〔 〕内私の補足)

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