仏教余話

その62
とにかく、オカルティズムと「梵我一如」は、似た発想だということは、伺える。如何に思考を重ね、精緻な教理体系が形成されたとしても、その理論は、オカルティズムの理論の域を出ないように思う。では、その理論とは何か?人類が最古から持つマジカルな同一視の理論である。つまり、本来は全く異なる2つのものAとBを同一視して、Aを支配することによって、Bをコントロール出来ると看做すような理論である。これは、例えば、「牛の刻参り」等の呪術に典型的に見られる。そこでは、人形Aを特定の人Bと同一視し
て、人形Aを傷つけることで、特定の人Bを害することを目論むのである。梵我一如は、このパターンと全く同じだ。Aたる個人のアートマンをBたる世界原理ブラフマンと同一視し、アートマンを操ることによって、世界を自在に動かそうという発想である。一皮剥いてしまえば、インド思想の中心概念「梵我一如」も、単なるマジックと同類なのである。実は、服部博士も、この事実に気づいている。博士はこう述べているからだ。
 相異なる二つの事象を実際に同一のものとみなし、一方の性質や作用の他方への転移をみとめる点において、〔ウパニッシャドの先駆けをなす〕ブラーフマナ文献に見られる祭式的思考法は、呪術の基礎をなしている思考法と、構造を同じくしている。英国の文化人類学者フレーザー(一八五四- 一九四一)は『金枝篇』において、呪術の根底にある思考の原理を分析し、呪術には、類似の原理にもとづくものと、接触ないし感染の原理にもとづくものがあると論じた。…このような彼らの思考法の中に、現象的存在を最高実在に同置するウパニッシャドの哲学が胚胎していた。ブラーフマナ時代の同置は、一方において原始心性に通じる性格をもっているが、他方にはウパニッシャドの「われはブラフマンなり」「おまえはそれ(最高実在)である」を予見していたと言ってよい。…外形的儀礼よりも、儀礼の意義を内面的にとらえることを重視する態度は、知識を重んじ、念想を祭式の執行にかわるものとする傾向と相即して、ブラーフマナ時代の祭式学からウパニッシャドの哲学への移行の道を開いて行ったのである。(服部正明『古代インドの神秘思想 初期ウパニッシャドの世界』昭和54年、pp.61-81、〔 〕内は私の補足)
博士の主張は、ウパニッシャドに至って、ブラーフマナ時代より、理論がより整備され緻密化したので、それは哲学である、というものである。しかし、基本的理論構造には、変化はない。返って、専門家し、理論武装した分だけ正体が見えなくなっただけである。私は、終始一貫、梵我一如は、神秘思想に他ならないと考えている。


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