仏教余話

その211
視野を広げるという意味で、先の縁起論争に関するやや特異な見解を、紹介だけしておこう。これなどは、むしろ、私の考えに近いかもしれない。湯浅泰雄氏は、こう綴っている。
 大正末年から昭和の初めごろ、宇井伯寿・和辻哲郎の両氏と木村泰賢・赤沼智善氏らの間で、縁起説の解釈をめぐっての論争が行われたことがある。私はインド学には素人であるが、和辻から倫理学を学んだ関係でこの論争のことも自然に知るようになった。要点をいうと、宇井・和辻説は十二因縁を論理的相関関係の説明であると解釈し、木村・赤沼説は時間的因果関係の説明であると解釈している(もっとも木村氏は、宇井・和辻説も一つの可能な解釈として認めている。)前者の説をとれば、十二因縁は「苦」という日常的経験のあり方を成立させる一種の論理的カテゴリーの表を意味し、身体の作用とは何の関係もないことになる。後者の説をとっても身体と十二因縁の関係はすぐに明らかになるわけではないが、何か考察の手がかりは得られそうである。そこで後者の説をもう少し調べてみると、「識」から「名色」が生じるという段階の解釈で、「名色」とは胎児のことであるという説明にぶつかった。これにはいささかおどろいたが、仏教哲学と身体論の間には、何か謎めいた関係がありそうだと思われてきた。縁起説の学問的解釈は私の任ではないので、右の論争についての判定はおくことにするが、身体論の観点から十二因縁を説明するとすれば、どういうことになるのだろうか。…十二因縁を母胎における生命の発生や胎児の成長から説明するというのは、哲学的考察としては、あまりにもなまなましい感じがしないでもない。こういう解釈がゴータマ・ブッダの考えに由来するものかどうかは専門家の判断に委ねる外はないが、少なくとも、仏教哲学の最初の体系化が行われたアビダルマ論の時代に、一つの可能な説明として行われていたということはたしかである。一見きわめて論理的で形式的な感じさえ受ける仏教哲学の背後に、そういうきわめてなまなましい生の感覚がひそんでいるところに、われわれが十分にとらえ得ないインド的思考様式の謎があるようにも思われる。(湯浅泰雄「仏教における身体論の諸問題」『現代思想 臨時増刊 総特集 インド文化圏への視点』1977,vol.5-14,pp.159-160)

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