仏教余話

その212
ともかく、何かと物議を醸し出すが、赫々たる名声を誇った和辻は、口を極めて、ローゼンベルグを批判している。
少々、長く難解かもしれないが、あまり眼に触れる機会もない論文だと思われるので、そこから、和辻の文を引用してみよう。
 仏教哲学の体系を法論(Dharmatheorie)として解釈しようとする試みは、現代ヨーロッパに於いては、ロシアの仏教学者ローゼンベルグ(Otto Rosenberg)及びチェルバキー(Th.Scherbatsuky)によって代表される。ローゼンベルグによれば仏教の哲学はプラトーンの哲学がイデア論と呼ばれるる意味に於いて法論と呼ばれねばならぬ。そうしてその法論はギリシャ的意義に於けるOntologieとしての形而上学に外ならぬのである。…以上の諸義を通覧すれば第二の意義即ち超越的持者としての法の意義が最も重大でありまた最も多く用いられていることは明らかである。しかもローゼンベルグによれば、この意義はこれまで全然知られていなかった。…かくしてローゼンベルグは、法を超越的持者と解しつつ、仏教哲学の体系が法論であることを主張する。我々はこの年少にして気を負える著者の主張の内にも、まさしく正鵠を得た点の存することを認めねばならない。即ち法の意義が七十五法の体系を解釈し得る意義でなくてはならぬとする点に於いて彼は覆し得ざる確乎たる地盤に立つのである。従って法を「現象」「もの」とする日本の解釈に対して彼の浴びせた痛烈な非難も、まさしく正当であると云わねばならぬ。一切有部の法論は素朴実在論ではない。日本に於ける伝統的な法の解釈が素朴実在論的なのである。さてそれならばローゼンベルグやチェルバツキーの「法」の解釈はそのままに承認せられ得るであろうか。我々は然りとは答え得ぬのである。…法は常に実在性を持つものとせられている。そうしてその実在性は、超越的真実在としての実在性であるか、或はその自性が超越的であるところの実在性であるかである。我々はここにこの両者に於ける法の解釈が一切有部の「法有」の立場による解釈に外ならぬことを見出すのである。…しかしながら法の有、即ち法の実在性の主張の立場に立って、かかる主張の生起した場面としての法の概念そのものを規定することは、果たして法の意義を仏教哲学全体の中心概念として明らかにする所以であろうか。法有の主張そのものは法空の主張に対立するのである。この対立は何を意味するか。そこに論争せられる問題は何であるか。それを明らかにするためにはかかる対立的立場を見渡し得る立場に立たなくてはならない。…そうしてこれらの法論がその初期の発展に達した後に、初めて法の有空の問題が、法の本質についての反省として生起したのである。この反省を通じてのみ法空の哲学としての龍樹哲学は大成せられた。この歴史的発展の段階を顧みずして法の概念を全仏教哲学に規定しようとするのは、畢竟徒労に終わらざるを得ぬ。法の概念はかかる発展や反省の全体を包み得るものでなくてはならない。ローゼンベルグはかかる発展の唯一つの段階に立って凡てを理解しようとしたがために、法有法空の「問題」が何を意味するかを理解しなかったのみならず、従ってまた彼の立てる段階そのものの、即ち法有の主張そのものの意義を見誤るに至っている。彼の能持自性の解釈がそれである。法が自相或は自性を持つとは、実は法有の主張を現すのであって、法の無自性空を主張する立場を含めての法の定義ではない。自相或は自性に於いて、意味の重点は「自」に存する。法の自立的独自性が主張の核心である。だから普光はいう。「一切の法は各自性を守る。例えば色法はあくまでも色としての性を持し、受想等の法とはならない。相はこれ性をいうのである。しかしまたこの一体の於いて、性と相との意義が分かれてもいる。自に着目する場合には性と呼ばれ、相関連する他の法に着目する場合には(即ち他に対して自の性格を区別する場合には)相と呼ばれる。この意味においては法の性(本質)がそれぞれ相(特性)を持つのである。しかし他方で法が自性を持つと云われる。その意味に於いては法の相(特性)がそれぞれ性(本質)を持つのである。」かくして七十五法に於ける各の法が、それぞれ特殊の法でもありつつ、しかも他に依存しない自立的な本質であることが主張せられる。法が自性(Svabhava,Eigensein,An-sich-sein)を持つとはかかる意味の法有の主張である。然るにローゼンベルグは相を現象と解し、普光の「相はこれ性をいう」との註にもとづいて性をも亦現象に外ならならぬとした。そこで法が自性を持つとは法が「おのれの現象を持つ」の意味であり、かかる現象を持つ者は現象の背後なる超越的基体でなければならぬとの彼の主張が成立する。法有とは法の超越的存在である。しかしかかる解釈が普光の註と遠く離れ法有の主張とも相容れぬものであることは明らかであろう。…かくして我々は、仏教哲学を法論とする解釈に賛意を表しつつも、超越的持者としての法の解釈を拒けねばならない。従って仏教哲学が現象的存在者の他に不可認識的実在者を立てるところの形而上学であるとの主張をも拒けねばならない。…かくして衆生は、その日常生活的に交渉する現実の存在者に於いてかかる存在者をあらしむる「法」を、即ち存在者の存在する仕方を、見ることが出来る。かかる「かた」としての「法」が仏教哲学に於ける法であり、この法の自性と無自性とがこの哲学の発展上重要な問題とされたのである。現実的な存在者とその存在の「かた」との他に、なお超越的存在者を認めることは、問題が仏教の哲学に関する限り、原始仏教の時代よりすでに極力排斥せられたところであった。仏教哲学のこの主要性格を無視するならば、この中心問題たる「空」は正当に理解され得ないであろう。(和辻哲朗「仏教哲学に於ける「法」の概念と空の弁証法」(『朝永博士還暦記念哲学論文集』,1931,pp.3-32)
 


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