仏教余話

その210
既に、無我と非我の相違を巡る議論の奥深さを知っている我々からすると、和辻の議論も、どこか宙に浮いたように見える。ブッダが、形而上的議論を回避したとするならば、何故、超形而上的な「法」解釈を持ち出すのだろう。首尾一貫しない。ブッダが形而上学的議論を嫌ったという伝承さえ危ういのである。それは、弟子の舎利弗の思想であって、ブッダのものではないのかもしれないのである。この辺りの不可解さは、先に見た。ここで、和
辻の解釈を批判した、松本史朗博士の意見も見ておきたい。松本博士はこう述べる。
 〔和辻〕博士の誤りは、ここで、「日常生活的経験」とか、「素朴的な現実存在」とかいうものの存在を自明なものとして承認したことにある。キルケゴールを研究した賢明なる博士にして、こんなおめでたいものがまず存在すると信じていたのか。縁起説が、十二支縁起が扱うのは、そんな平板な日常素朴的な現実なのではなく、存在することが確たる根拠をもたない危機的な生なのだ。日常生活的経験などという、およそ哲学者の言とも思われないような凡庸なるものをまず認めるとすれば、それを可能にする範疇つまり「法」というものが、全くスタティックな、危機ならざるものであることは眼にみえている。博士は「法有」論に一直線に進んでいる。…博士の考えは、法は時間的な意味で普遍的に妥当するもの、つまり簡単にいえば常住でなければならないという、多くの仏教学者にとって抜きがたい通念に立っている。そこから「存在するもの」と「法」とを分ける単純な二分法が出てくる。…博士のこうした「法有」的な「法常住」説が、全くアビダルマの“法”理解に基づいていること〔は確かである〕。〔和辻博士は〕以上の
論述において自己の仏教理解の最も根本に、アビダルマの「法」理解を取り込んでしまっている。(松本史朗「縁起について」『縁起と空 如来蔵思想批判』1989,所収pp.23-25、〔 〕内私の補足)
事は、アビダルマという、一般には、大乗仏教の不倶戴天の敵とされる、伝統仏教と、それに反旗を翻した中観仏教との対立を思わせるような、重大な問題にまで及んでいる。複雑なテーマであるので、軽々に扱うべきではないであろうが、論点はただ1つ、法=ダルマとは何か?ということである。私自身は、和辻流に、原始仏教を「素朴」と看做すことにも賛成出来ないが、松本博士流に法=ダルマを常住とすることを忌み嫌うことにも疑念がある。恐らく、松本博士がターゲットとしているアビダルマの法の理論構造は、昨今のヴァーチャル的な世界を想定したもので、宗教的側面からだけでは把握出来ないであろう。もっと、実利的で、シヴィアな世界観を想定して、考察していくべきであろう。このことには、また、いつか詳しく触れるつもりである。

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