仏教余話

その14
オルコットの来日は大成功といってよいであろう。各地に「仏教青年会」が組織され、仏教に対する関心が国民各層に広がったからである。しかし、オルコット礼賛一色のこの風潮に苦言を呈する意見もあった。日本仏教史研究で知られる歴史学者の辻善之助は、幼少時、オルコットの演説に接したらしい。その辻はこう述べている。
 当時我仏教界は、オルコットの説を聴いて、百万の味方を得たるが如くさわいだ。我仏教者が、自ら心に恃む所なく、西洋人の言とさえいえば、之(これ)に椅頼(きらい)することは、あたかも同じ明治の初年に古来の芸術品を惜気もなく、塵芥(ちりあくた)の如く放擲(ほうてき)したものが、フェノロサ其他の西洋人の説に聴いて、忽(たちま)ちに古美術の保護を叫ぶようになったと同一轍で、まことに頼もしからぬ国民性であるといわねばならぬ。(『明治仏教史の問題』1949年、佐藤哲朗『大アジア思想活劇』2008年、p.264より孫引き)
また、お雇い外人で、長く日本に滞在したドイツ人医師ベルツ(1849-1927)は、オルコットと会見した様子を日記に記して、こう述べている。
 夜、フェノロサのもとで、神秘仏教の使徒オルコット師にあう。師は仏教徒の真宗派に頼まれて日本中を巡歴し、講演を行っている。だが、聞くところによれば、真宗の人たちは、あまり教化されていないとか。当然の話だーというのは、師の教えるところは、アミダなどを信仰しない南方の哲学形式を神秘的空想、すなわち(ほとんど信じられないのだが、事実は)極端な奇跡の信仰と混和したものであるからだ。(『ベルツの日記 上』岩波文庫1979年、p.139、佐藤哲朗『大アジア思想活劇』2008年、p.265より孫引き)
ベルツの意見は的を得ている。オルコットは、元々は、オカルティストで、それは、多分、阿弥陀仏を信仰する浄土真宗の教義とも、厳格なスリランカの仏教とも、一致しないはずである。たまたま、共同戦線を張るべき状況にあったので、手を握り合ったにすぎない。特に、スリランカの仏教は、小乗仏教の1派なので、神秘主義的要素には、極めて無縁なところがある仏教だと思われる。しかし、オルコットが仏教徒を名乗り、日本仏教への助力が、何の不思議もなく行われたのが、19世紀という時代なのであり、明治日本の仏教事情なのである。オルコットの4ヶ月ほどの日本滞在は、結局は単なるお祭り騒ぎに終わった。オルコットは2年後の明治24年(1891年)再度、
来日するが、その時は、打って変わって、冷遇された。彼は、「国際仏教連盟」(International Buddhist League)なるものを設立しようとしていた。ところが、その案は歓迎されなかったのである。日本では、オルコットを懐疑の目で見るようになっていた。神智学協会の内紛やヨーロッパの評判などが、日本にも伝わり、オルコットへの対応も変化したのである。


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