仏教余話

その221
ともあれ、アビダルマ不評論のある中で、ローゼンベルグの取った立場は、その対極にあった。西村氏は、ローゼンベルグ自身の言葉を引用し、彼の思いを伝える。
 ヨーロッパでは経典だけに注目し、アビダルマ論書の意義を無視する学者まであったのである。しかしアビダルマに対するこうした否定的見解あるいは誤解に対して、ローゼンベルクは、原始仏教研究はアビダルマ叢書に摂せられている体系的論書即ち、事実上、後期の仏教的組織の根底となっている所謂、長老達の文献を以って始めねばならないものであって、経を以って始めるのではない。従来ヨーロッパに於いては、常に、経が注目せられていた。特に、真正な純粋な仏教を含むと言われるパーリ経典が注目された。経典は独立的に説明し翻訳された。論書と注釈に於いて保持されている伝統的解釈は、多少とも無視された。パーリアビダンマは殆ど研究されなかった。(略)然し、実際、仏教教学と仏教宗派史を理解する鍵鑰〔けんやく〕はまさに、アビダルマの中に含まれているのである。というのはアビダルマは、実際に、指導的仏教者の間で支配的であった諸思想に関して権威ある指示を我々に与えている。然し、我々が経に対して想定し勝ちな多少とも任意な解釈に基づいているような思想に関してではない。かえって、経そのものである。というのは経の中で我々は簡潔な形式を見出し、而も、簡潔な形式はアビダルマの知識なくしては単なる人為的組み合わせにしか過ぎないものとなるであろう。
 と、仏教教学を理解する鍵はアビダルマのこそあるといい切る。経典だけを依りどころとした場合、仏教の重要な概念一つ規定する際にも諸学者の間で齟齬をきたすことになり、それはアビダルマを軽視することに起因するという。(西村実則「荻原・渡辺とローゼンベルク(正)」『仏教論叢』48,2004,pp.186-187,〔 〕内私の補足)
ローゼンベルグの主張は、正論であろう。


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