仏教余話

その209
実は、ローゼンベルグは、当時、一流の学者からは、手酷く、批判されていたのである。その学者とは、和辻哲郎(1889-1960)である。『古寺巡礼』などの著作で、今も名高い一代の傑物であるので、ご存知の向きもあるだろう。和辻は、最初、ニーチェなどの西洋哲学を研究していたが、後に、仏教研究に移り、大いに、学界を刺激したのである。漱石とも親交があったようである。和辻の仏教学への参入を記して、京都の学者一族の出である船橋一哉博士は、次のように述べている。
 わが国において原始仏教の研究に花が咲いて、甲論乙駁、文字通り蘭菊その美を競ったのは、大正の終わりから昭和の初めにかけてであった。その中で和辻哲朗教授の「原始仏教の実践哲学」(岩波書店)が出版せられ、当時の学界に大きな波紋をなげかけた。これは西洋哲学の方法論をもって、原始仏教の教理を解明しようと試みたもので、今まで仏教学者のみにゆだねられた仏教研究を、共通の広場である学問の場に引き出すことにおいて、大いに見るべき効果があった。(舟橋一哉「インド仏教への道しるべ(一)-原始仏教―」『仏教学セミナー』5、1967,p.45)
和辻の仏教研究デヴューについては、末木文美士氏が、わかりやすく伝えてくれるので、それを以下に、引いてみよう。
 『原始仏教』が著された二○世紀の初めは、あたかも西欧において新しい仏教研究の波が起こり、それが日本に及んできた時期であり、一方では木村泰賢らの解釈が流布するとともに、他方、宇井伯寿らによってそれが批判され、活発な議論がなされていた。木村が縁起説に関して比較的伝統的な解釈を重視し、時間的継起を説くものと見たのに対して、宇井はそれを批判し、論理的関係の観点から解釈しようとした。和辻は宇井の解釈を踏まえ、さらにそれを徹底して論理的・哲学的解釈を推し進め、伝統的な解釈を重視する木村に対して極めて手厳しい批判を行っている。…では原始仏教によって展開された哲学とはどのようなものであろうか。和辻は、ブッダの形而上学的問題への解答拒否をカントと比較することに反対して、ブッダの当時、カントの時代のような自然科学が未発達だった点を指摘し、原始仏教の思想の中核を次のようにまとめる。
  原始仏教はかくのごとき日常生活的経験を批判し、その根本範疇を見いだそうとしたのである。しかもこの仕事は後に説くごとく無我の立場において、すなわち主観客観の対立を排除した立場において、行われた。日常生活的経験は主観の側面から見られるのではなく、そのままに素朴的な現実そのものとして取り扱われる。従って日常生活的経験を可能にする範疇とは日常生活的主観の形式なのではなく、素朴な現実存在そのものの有り方なのである。かかる意味の範疇がここには「法」として立てられる。この意味で原始仏教の哲学は範疇論であり、この哲学的認識が認識の名に値する唯一の認識と考えられてたと解してよいであろう。(一○七―一○八頁)
 このように、和辻は原始仏教の理論を徹底的に認識論として、日常生活の経験を明らかにする範疇論として解する。それ故、無常・苦・無我という仏教の原理の中で、和辻は「苦」の原理にはほとんど触れない。また、無常に関する解釈も独特である。確かに、「すべての存在は推移する」(一一三頁)が、「過ぎゆくものがそのものとしてあらしめられる「かた」としてのもの」(一一五頁)である「法」は「過ぎ行かざるもの、超時間的に妥当するものである」(一一四頁)それ故、「存在するもの」(存在者)と「法」は別である。…無常よりも「法」の超時間性に力点を置いたところに、まさに「永遠」を志向する和辻の面目が現れている。(末木文美士『近代日本と仏教 近代日本の思想・再考II』2004,pp.82-85)
 
 

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