仏教余話

その227
とにかく、今と違って、明治の人の熱気はすごいものがある。その熱気の目指した1つが、チベットなのである。明治とは時代はずれるが、チベットと深い関わりのあった、著名な多田等観の事跡にも、触れておこう。ややきな臭い話であるが、日本のチベット研究の重要な側面についての記述である。
 多田のこのような活動は、どのような意義を持っていたのか。それを最初に示す資料は、最初の大陸行の際、1933(昭和8)年8月31日に新京の関東軍本部で手渡されたと思われる「訓令」「指示」2種の書類である。これらによれば、関東軍によって多田の使命とされたものには2種ある。その第一は「喇嘛教ノ宗教的価値」「其ノ勢力ノ消長」「該宗教ニ対スル民心ノ趣向」「将来之利用方法」に関するものつまり「喇嘛教」が、関東軍の工作及び今後の大陸における日本人の活動にとって持つ利用価値と、その具体的な利用方法の策定に資する情報の収集・分析である。これらの情報は、日記原文を見る限り、文書及び口頭で随時関東軍本部へ報告されたと思われる。加えて、「喇嘛教」事情教育にも、専門家として多田が活用されている。帰国後、彼は陸軍参謀本部をはじめ、海軍の施設等でも「喇嘛教」について講演をしている。特に、多田の最初の大陸訪問の半年前に、「満蒙」現地での宣撫工作の重要な一環を担うべき機関として設立されたばかりの善隣協会では、複数回の講演の上に、同会が現地に派遣する医療班への助言や、「喇嘛教」に関するパンフレットの執筆等も依頼されている。使命の第二は、「喇嘛教徒トノ連絡」である。これについて、具体像を示すのが、満鉄調査員木原林二による報告書「多倫及郭家屯地方農業調査報告」である。…関東軍は木原に、多田の最初の大陸訪問と同時期の1933年11-12月、内蒙古工作の予備調査を依頼、同報告書はその記録である。現地対策としては、「商品館の設立」、「衛生設備」、「獣医の派遣」、「航空路新設」、「情義の連繋」の5項目が挙げられている。最後の「情義の連繋」は、現地における具体的な人脈の形成を含むものだと思われるが、これこそ、関東軍が多田に期待した役割の最大のものではないかと考えられる。多田はラサの名刹セラ寺院でチベット仏教の正式な学位を得、またセラ滞在中はモンゴル出身者の寮に居住していた。つまり、学位保持者として寺院上層部との対話が可能であり、またセラ時代の人脈から現地モンゴル人僧侶との具体的な連繋も期待できるということである。多田が大陸に呼ばれるその直前から、当時関東軍は、承徳を中心に該当地域に特務機関の分派機関を設置しつつあり、多田はこれらの諸機関と緊密な連絡を保つように指示されている。…これら特務機関の活動展開の円滑化に貢献が見込める人材として、多田が考えられていたと思われる。(高木康子「日本人入蔵資料に見る戦時期「喇嘛教」工作と熱河承徳―多田等観関連資料を中心にー」『印度学仏教学研究』61-1,2012,pp.515-514)
軍部との関係からチベット研究の有り様を見た面白い論文である。
 

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