仏教余話

その226
この辺りのことを、専門に研究している人に金子民雄がいる。金子氏は、雲南懇親会という所で、その1人について、発表している。その発表要旨を紹介し、慧海以外にチベット行きを志した人物を見ていこう。
 今からざっと100年前、中国西南の省・雲南で一人の日本人僧が行方不明になりました。東本願寺系の能海寛(のうみ ゆたか)という人物です。彼は正しい仏典を日本に将来することを念じ、チベットに向かいました。最終目的地はラサです。しかし、当時のチベットは外国人の一切に入国を認めませんでした。そこで彼は変装し、数度の試みをしますが、遂に金沙江上流(揚子江;長江の上流)で消息を絶ちます。彼の身に何が起きたのか、未だ明確ではありません。彼の調査がいつか曖昧になり、事実すら歪曲されていくようになります。彼の人間的性格のためだったのか、軍事関係の隠蔽工作だったのか、これらの点も考慮に入れて、改めていま一度この事件を追ってみたいと思います。このような人物が他にもいたのである。この金子氏の発表は、「能海寛のたどった道」として、『ヒマラヤ学雑誌』9に掲載されたものが、pdfでネットでも見ることが出来る。雲南懇談会という名も、私は、始めて知ったが、ネット検索すると、かなりの発表内容が見られる。主に、フィルドワーク的な研究が多い。興味のある方は、ネットで見て欲い。最近、前にも名を出したことがある近角常観という仏教者の雑誌に、能海寛の手紙が掲載されているのを見つけた。貴重な資料だと思われるので、ここで1部、引用しておこう。
       雜録
 西蔵通信 
  左の一篇は、多年の宿志をはらして、本法の爲西蔵探検の途に上られたる能海寛君が南條文雄師の下に送られたる消息なり、乃ち本欄に収めて之を紹介す
 拝啓五月十二日夜御認めの御書簡重慶領事館より打箭戸〔たせんと、地名〕より轉送相
 成候處〔あいなり・そうろう・ところ〕已〔すで〕に小生出立後にて炉城軍糧府の手を經て裏塘を超え炉城より一千一百四十晴里の内地なる常巴塘に於て去る十三日朝巴塘軍糧府官武氏に面晤〔めんご〕の節〔おり〕正に落手拝見仕候〔つかまつり・そうろう〕貴信と共に國元及び重慶、打箭戸よりの五通の書面を得日本、重慶等の事情を承知し心中非常に愉快を感候〔かんじ・そうろう〕又小生在裏塘中は本山より昨年十二月送付相
成候御本尊二百代二箱並に御蔵版三部妙典二部八巻受取、炉西は全く西蔵の域にて如此小荷物書面等達しかたき僻地にも拘らず二度迄荷物及書面落手致し實に珍敷〔めずらしき〕事に存候…過日井土川大尉歸朝に際し打箭戸より送り置候小包の中には拉薩傳來の小部の經文十餘部入置〔いれおき〕候他日御覧被下候〔ごらんくだされる〕事を得ば幸に御座候其他申上事〔もうしあげたきこと〕多々有之候得共〔これありそうらえども〕暫くの御暇〔おいとま〕申上候尚辱知法兄へ宜敷〔よろしく〕御傳聲〔ごでんせい〕奉願上〔たてまつりねがいあげ〕候早々頓首
 明治三十二年八月十五日
            清國四川内地西蔵境巴塘旅宿にて
                  能海 寛
 南篠文雄尊師 座下
  別封西蔵經文の見本として二葉添送り申候共に蔵文に御座候異躰に御座候右にラサ寺の塔中にステラレタルヲ拾いたるに泥にヨゴレ居候只参考見本迄に相送申候
(『政敎時報』21、明治32年11月1日発行、pp.11-13,〔 〕内は私の補足、この雑誌もネットで披見可能である)
余りに長い手紙なので、大幅にカットしたが、往時の雰囲気は伝わると思う。
 
 

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