新チベット仏教史―自己流ー

その2
然しながら、その悪役振りが魅力にも映ります。一体、どのような人なのでしょうか?以下に、クトゥンの姿を探ることにしましょう。その手段として、別な仏教史書に頼ってみます。レーチェン・クンガーギェルツェン(Las chen kun dga’ rgyal mtshan,1432-1506)著『カダム明灯史』bKa’ gdam kyi rnam par thar ba bka’gdams chos ‘byung gsal ba’i sgron mehは、『青史』よりも長大な史書です。そこに、クトゥンに関する記述がありますので、それを紹介してみます。
 I〈クトゥンの略歴〉
ゲーシェークトゥンとは、国はヤルルン、名はツォンドゥー・ユンドゥン、辛亥(しんがい)(lcags mo phag,1011)のお生まれで、ナクツォ(Nag tsho、1011-1064)と御誕生は同じ年、彼とゴクレグペーシェーラプ(rngog legs pa’i shes rab)とドムトン3人は、カムに赴かれて、師セツゥンに、法をたくさん、聴聞された。ガルミ・ユンテン・ユンドゥン(Gar mi yon tan g-yung drung)に、アビダルマ(mngon pa,abhidharma)を学び、通じ会得された。ルメー一切の上座をなされた。
II〈アティシャとの会見の顛末(てんまつ)〉
その時期に、彼以上の人物がいないのにかかわらず(la)、ゲシェートンパ〔=ドムトン〕が、ウーの大物達に、差し上げた公文書に、ク〔トゥン〕の名が入っていないかったことで、気色(けしき)ばまれて、「アティシャを私自身が、得ん」と思い、先んじて、〔馬の〕鞭(むち)を逸(や)り、御出立されたので、他の者達にとっても、発破(はっぱ)をかけることとなった。シャンロンのお口伝えによれば、「ク〔トゥン〕を入れなかったことそれは、行き届いたことだ」とおっしゃった。それも、ゲーシェートンパ〔=ドムトン〕の大度量(だいどりょう)の賜物(たまもの)なのである。アティシャと謁見した途端、三宝(さんぼう)供養(くよう)の本義・不二の修習(しゅじゅう)をなす訓戒が、その〔クトゥンの〕ご発声。その際、クトゥンは、次のように、トンパ〔=ドムトン〕に向かい、「汝は、チベットの大物達の中に私を入れなかった」といったので、レクペーシェーラプ等は、事(bの余人の中に、加えることを懇願したのだったが、「余人の只中(ただなか)に入ったその人物が私なのか」といって、それでも、お喜びにならず、彼は、ゲーシェートンパに対し、引きも切らず、不満の言。
 

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