仏教余話

その233
もう1人は、ヴォストリコフと同年輩のローエリッヒ(Jurij,Nikolaevic
Rerix/Geoge(s)(N.)Roerich,1902-1960)である。彼は、チベットの著名な歴史書、ショヌペル(gZhon nu dpal,1392-1481)作『青史』(Dep ther sngon po)をThe Blue Annalsとして英訳し、仏教学に、大いに寄与した。彼の一族には、才能豊かな人が多く、その周辺は華やかであった。湯山博士は、こう描写する。
 彼の父ニコライ(Nikolaj Konstantinovic Rerix/Nikolas Roerich:1874-1947)は、芸術的才能のみならず、種々の面で非凡な天賦の才を発揮し、時に夫人エレーナ(Elena Ivanovna Rerix,nee Saposnikova/Helena Roerich:1879-1955)と共に非常な活躍をしたことで、一般には世界的に広く知られているに相違ない。ニコライは妻エレーナを“ラーダー”〔クリシュナというヒンドゥー教の神の母の名〕…と呼んでいたという。彼らのアジア、就中インド文化圏への傾倒振りは、並大抵ではなかったのだろう。エレーナは、設計した建物が今も遺る有名な建築家シャポニシュコフ(Ivan Ivanovic Saposnikov)の息女で、音楽家ムソルグスキー(Madest Petrovic Musorgskj:1839-1881)は母方の叔父にあたり、いわゆる神智学協会のブラバツキー(helena Petrovena Blavatsky:1831-1891)の著作のロシア語訳を刊行したり、仏教に関する労作もあり、彼女の著作集がいまだにロシアで公刊されている。一家は、1920年にアメリカに渡ると、ニコライの絵画展も成功し、揃って洋の東西を駆け巡り、内陸アジアを巡るなど、並はずれた活動をする。そしてレーリッヒ親子四人の著作も枚挙に暇がなく、文字通り際限があるまいし、同じ書物が出版元を異にして出たり、あるいは他国語に翻訳されたり、今日まで息長く増刷を繰り返すものも多く、筆者の目の届く範囲も限られていよう。関連の書物・論稿ともなれば言わずもがなである。種々の研究機関や施設を組織して影響を与えてきた。第二次大戦後の1949年には、ニコラス・レーリッヒ美術館(Nikolas Roerich Museum)も組織化されて、今も中に彼等の創設したアグニ・ヨーガ協会(Agni Yoga Society/Maitreya-Samgha)も同居する。祖国ロシアには、レーリッヒ家の博物館・研究所(Muzej-Institut,sem’I Rerixov v Sankt-Peterburgu/The roerich Family Museum and Institut in St.Petersburg)があるそうだ。極めて多作のニコライの絵画であるが、今も高い評価を受けて、例えばニューヨークのクリスティーズの競売に、詳しい解説を施して懸けられることがあるようだ。彼の魅惑的な絵画は、筆者の如き素人にも独特の印象・感銘を与える。戦後にモスクワから出た覆製画集は、1897年から1944年までの四十二点の秀作を、年代順に一枚づつ絵を貼り付けて簡単な解説を施してあり、愛好家には便利で有難いものだと思われるが、余り出回らなかったのか、引用していないレーリヒ研究書もあるようだ。(湯山明Misellance Philologica Buddhica(V)『創価大学国際仏教学高等研究所年報』10,2007、pp.483-484、〔 〕内私の補足)
湯山博士の記述は、まだ続くが、チベット学者ローエリッヒ周辺のきらびやかさが、伝われば、充分である。ネットで、roerichと検索すると、今紹介した画家の絵を見ることも出来る。ついでながら、湯山博士の注で、言及されている加藤九祚『ヒマラヤに魅せられたひと ニコライ・レーリヒの生涯』1982から、我々の関心の対象、チベット学者である息子ユーリに関する記述を抜き出してみよう。
 レーリヒ一行はヒマラヤに近づきたいと考え、シッキムを目ざした。…一九二三年十二月末のことで、冷えこみはきびしく、鳥も少なかった。…長男ユーリは、碩学のラマであるロプサン・ミンギュル・ドルジェについてチベット語の研究をはじめた。(加藤九祚『ヒマラヤに魅せられたひと ニコライ・レーリヒの生涯』1982、pp.80-81)
後に偉大な業績を残すための、これがきっかけとなったのである。更に、加藤氏は、ローエリッヒの探検の意味を、次のように述べている。
 他の探検家たちとはちがって、チベット文化、さらにはラマ教文化を再発見し、世界に知らせた。レーリヒ自身はその絵と著作を通じてであり、その子ユーリは『チベット絵画』、『チベット文法』、『青の年代記』、『チベット語辞典』その他の著作を通じてである。(加藤九祚『ヒマラヤに魅せられたひと ニコライ・レーリヒの生涯』1982、p.137)
チベット仏教研究の消息を追っている我々には、ドンピシャの記述である。極最近、彼についての、面白い研究が公にされたので、1部紹介しておこう。ローエリッヒは、実は、何度か来日したらしく、日本で公演も行ったらしいのである。こうある。
 ニコラス、ローリック氏(米國佛教共會名誉會長)を招し、十三番教室に於て佛教公演會を開催。氏は印度並に奥西蔵に旅行され、殊に同地の佛教事情に精通され、小ローリック夫妻を同伴して印度への途次、短日間我國に滞在して特に本學會の爲に講ぜられたるは意義深き事である。氏は、米國畫家としても亦非常なる親日家であり、吾國朝野の名士並びに畫家に親交があり、誠に得難き愛日家なのである。聴講出席者六百余命、立花先生の御通譯あり、盛會を極む。尚河口慧海師御出席せらる。(昭和九年度佛教學會年
報:駒澤大學學報第五巻之一、1934年6月10日発行)(金沢篤「レーリヒと河口慧海―レーリヒ父子来日の事情を探るー」『駒澤大学仏教学部研究紀要』71,平成24年、p.254)
これで、いくらか身近な人物となったであろう。


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