新チベット仏教史ー自己流ー

その6
チベット到着の様子を続けて、見ていきましょう。
 それにつけても、アティシャ師は、干支(えと)(dgung sning)は、壬午(みずのえ・うま、982年)なので、59歳、庚辰(かのえ・たつ、1040年)の年に、インドから去りました。辛巳(かのと・み、1041年)の年は、ネパール国におわしました。ガリ(mnga’ris)に、壬午(みずのえ・うま、1042年)に、御到着になったのです。ナクツォ翻訳官は、辛亥(かのと・ゐ、1011年)の方で、アティシャが、ガリに、お出ましになった際には、31歳でした。・・・ガリに到着した時、法王〔チャンチュプウー〕によって、盛大なる歓迎の手筈(てはず)が取られ、〔アティシャは〕、トーディンの伽藍(がらん)にご来駕(らいが)なさったのです。法王〔チャンチュプウー〕は、御宿願(ごしゅくがん)が成就(じょうじゅ)するまでの沢山のお話をお伝えしました。後に、アティシャが、ウーにおわす時、法王が拝謁(はいえつ)に参られ、その折、チベットの師達が、ガリにいらした〔のですが〕、賢者のそれぞれの功徳(くどく)を尋ねると、「彼には、この功徳がある、〔そして、別の〕彼にはこの〔ような〕功徳がある。」とおっしゃっいました。アティシャの功徳を尋ねると、お目は、虚空(こくう)を睨(にら)まれ、声はかすれがちにされて「彼の功徳は、更に(’ang)、彼の功徳は、更に」とおっしゃって、〔アティシャの功徳は〕、言葉を超えたものである、と算定した(brtsi ba)のでございます。
アティシャは、大いなる歓迎をもって迎えられたことがしのばれます。

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