仏教余話

その216
藤村操の華厳の滝への投身自殺は、当時、世相を賑わせた有名な事件である。漱石は、藤村操の英語教師であったようで、かなりの衝撃もあったようである。それはともかくとして、ここで、私が注目したいのは、哲学者として著名な和辻の心の奥には、詩魂が宿っているという事実である。後に彼が向かうこととなる「仏教研究」においても、その詩魂はもしかすれば、生きていたのではないだろうか?私がこういうのは、時として、その詩魂は、
仏教研究の妨げとなることもあるからである。漱石の場合も、然りである。彼は理屈が通らぬ禅に対して、終始、疑いの視線は持っていたが、一面、憧れも見せている。その憧れは、彼の詩魂のなせるわざなのかもしれないのである。和辻も、その詩魂が、災いして、とんだ神秘主義的仏教理解を示す危険はある。しかし、それは私の杞憂かもしれない。実は、ローゼンベルグは、かなりの神秘主義者的側面を見せる。彼は、法(ダルマ)を以下のように看做しているからである。
 法とは意識の流れとその内容を分解する諸要素の真実在的、超絶的、不可認識的任持者或は基体を云う。(佐々木訳本、p.116)
 Dharma heissen die wahrhaft-realen,transzendenten,unerkennbaren Trager oder Substrate derjenigen elemente,in welche der Bewusstseinsstrom mit seinem Inhalt zerlegt wird.(Die probreme der Buddhistischen Philosophie,Heiderberg,1924,p.101)
これを見る限り、ローゼンベルグにとって、ダルマは超絶的(transzendenten)な、不可認識的(unerkennbaren)な存在である。簡単にいうと、把握不可能な「目に見えない」存在なのである。この法理解を、先に紹介した和辻の論文では、完全に否定している。それを見る限りでは、私の危惧は払拭されるが、先だって見た末木文美士氏や松本史朗博士の著書を勘案すれば、和辻とローゼンベルグは、同類のようにも写るのである。


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