仏教余話

その89
神格化された観のあるガンディーとの相違なども、垣間見えて、興味深い。ここでの、粟屋氏の筆致は、アンベードカルに同情的に写るが、勿論、彼に対する批判もある。奈良康明博士は、以下のように述べている。
 アンベードカルの改宗の理由が不可触民に対する差別にあったことは、その改宗にいたるまでの経緯からも明らかである。彼は特に自己実存に関する悩みがあったわけではない。強烈に彼を導いた精神的指導者がいたわけでもない。まず信仰があって、その上での社会批判でもない。彼は自らも被害者である社会的不平等に苦しみ、その改善のために努力したが、思うような成果を上げることができなかった。その結果としての仏教への改宗であって、社会的要因に支えられた改宗だった。それだけに彼のブッダの経歴や教理理解は特異である。改宗翌年に出版されたThe Buddha and His Dhammaは不可触民の人たちに仏教を教えるものであり、実際にネオ・ブッディストの教科書の意味合いを持っている。それだけに重要な出版であるのだが、仏教を徹底して社会活動家の立場から論じている。例えば、ブッダの出家は従来いわれているように老病死に悩んだからではない。隣国のコーリヤ族と水争いがあり、非戦論を主張したが入れられず、出家せざるを得なかったものだという。「人生は苦なり」(一切皆苦)とはブッダの教えの基本的な出発点だが、彼はその宗教的意味を理解しない。人生を苦なるものとみることはペシミズム(悲観主義)的色彩があり、仏教の魅力を失わせるものである。四諦(苦集滅道)八聖道は仏教の最基本の教えだが、ここに見える苦を、欲望に基づく欲求不満の苦とはみず、貧困として説いている。…涅槃(ニッバーナ)にしても、アンベードカルは教理書にいうような「自我が消滅して死に等しいような状態」ではない、という。それは般涅槃(完全な涅槃、パリニッバーナ)であるとし、肉体の死により完全な涅槃にはいる、とする教理を否定している。そして涅槃とはもっと生き生きとして生活の中にあり、八聖道の生活がそれでありと言い、あくまでも社会的実践に託して涅槃を説いている。また、実体的な霊魂が生前の善悪の行為の潜在的力(業力)を担って転生し、輪廻するという思想も「合理的ではなく、バラモンの教理が仏教に混入したもの」という。しかし、ブッダが輪廻を認めたことは擁護し、アンベードカルなりの合理的な解釈を提示する。すなわち、人が死ぬと身体的要素の地、水、火、風の四元素とエネルギーは、空中にあるそれぞれの四元素や宇宙のエネルギーに帰し、それから新しい四元素が合体し、新しいエネルギーが生じて新しい身体を構成し、輪廻するという。そして現世の状況を前世の業の結果であるとすることは、貧困とか差別とかの社会現象を、こうした状況に苦しむ人びと自身の責任に転化させるものであり、誤りである。善因善果、悪因悪果とはあくまでもこの現世においてのみ適応されるものであり、それこそが道徳的秩序を成立させる成立させる根拠となるものであると主張する。こうしてアンベードカルは現代の理性に合致しない仏教の教理は無視するか、改釈してしまった。不可触民の社会的向上に都合の悪い部分は改変してしまった。仏教の宗教的実存の側面も全く考慮していない。あくまでも不可触民のリーダーとして、自らの目的に合致するような仏教を主張したのである。(奈良康明「ヒンドゥー世界の仏教」『新アジア仏教史01インドI 仏教出現の背景』平成22年所収、pp.26-28)
アンベードカルの出自からして、彼の仏教解釈が片寄るのも無理はないとも思う。彼をめぐる話はまだまだ続くが、この辺で止めておこう。興味をもった方は、ご自分で、続きを探って欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?