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表現の不自由展(5) 平和の少女像

ひとつの美術作品にこれほどたくさんの文言が同時展示されているからには、これはコンセプチュアルアートとでもいうべきものだと思う。
(↑たとえば、かかとについては、説明文の6.かかとを読んでみてほしい。)
すべてのアートは歴史や社会を自然や宇宙を背景にしているが、この作品もまたそうであり、その背景に「終わってない闘い」がある。
それにオブジェがそれ自体の力で、言葉を介さずに拮抗することはほぼ不可能であるためか、言葉や映像による解説がアートを補っている。
これは、アートとしての力不足を論じることも不可能ではない。
しかし、むしろ言葉と一体になった全体がアートだと考える方が妥当かもしれない。
またこのアートは参加を促す構造にもなっている。
少女の横に置かれた空の椅子。
これに座ってみることが観客に促されている。

私は電動車椅子で行ったのだが、「少し歩けるので座ってもいいですか」と聞くと、スタッフがどうぞお座りくださいと即答した。
もうちょっと質問して、転倒の危険性などについて確認しなくてもいいのか。
私は自分の体調はかなり正確に把握できるので、今はぎりぎりまで電動車椅子を寄せて、椅子の背を持って移れば大丈夫だという確信があった。
スタッフとも観客ともつかぬ人が、手や肩を貸そうとしてくれたが、私は断った。
「ぎりぎりまで電動車椅子を寄せていいですか」
「どうぞ」
「電動車椅子は重いですが、このアクリル板に乗ってもいいですか」
「どうぞ。大丈夫です」
ぎりぎりまで寄せ、椅子の背を手に握って一瞬立ち上がり、椅子に腰かけた。
写真撮影を頼むと、スタッフとも観客ともつかぬ人が、電動車椅子を脇に寄せてくれ、たぶんスタッフらしき人が私のスマホを受け取った。
(外で右翼が街宣車のスピーカーで抗議の怒声を繰り返す中、この静謐な空間で淡々と進行していたのが、そのような人間の営みである。)

私は普通、写真において、おもいきりはじけた顔になる。
迂闊なことに私は座るまで自分の表情について何も考えていなかった。
座った瞬間、少女像とのチューニングが起こった。
これがこのアート作品のもうひとつの重要な要素だ。
(1)オブジェそのもの
(2)言葉や映像などの資料
(3)となりの椅子に座ってみるという体験。

私の表情は怒りでも悲しみでもなく、たぶん複雑な戸惑いだ。
それが私のリアリティだと思う。

私は今ここで男性としての私の性や恋愛に関する履歴や、想いの全体像と重ね合わせて、ここに座った感想を一気に言葉で語るのは不可能である。
なんならすべての私の書き物をもってしても、言うに言われぬものは残る。
だが、おそらく、写真の表情には嘘はつけない。
顔は心の表玄関だからだ。
私は考えていなかっただけに、よけいに隙を突かれたのだ。
おそらくは外で街宣している右翼の彼らだけではなく、世界中の多くの男性が、ふいを突かれるのではないか。
そしてその時の戸惑いをそのまま認めることができなければできないほど、あれやこれやのイデオロギーに寄りかかり、何かを言うことで煙幕を張るのではないか。
そんな気がした。

こうして撮ってもらった少女像と私の並んだ写真が以下である。

平和の少女像と私のツーショット(4種5カット)のみ、有料。(興味本位を避けるためとご理解ください。)


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