山岸凉子「艮」

を読みながらどうしてこう、無性に面白いのだろうと首を傾げた。
凄みなら「天人唐草」、しみじみ読むなら「白眼子」、個人的な愛着なら「月読」(それぞれ今後紹介できればしたい)と筆者も山岸凉子作品をこよなく愛する良き読者の一人だと信じている―いたい―が、しかし氏の作品の何がこんなに面白いのかよく分からないのも事実なのだ。

そこで当記事の目標は、山岸凉子氏の作品の面白さを(最新作「うしとら」を頼りに)言語化することにある。
収録作品は四つ。表題作「艮」、「死神」、「時計草」、「ドラゴンメイド」。最後の「ドラゴンメイド」は作者のエッセイに近いから純粋な創作は三作。
「山岸凉子が描く、善と悪の彼岸」が帯のキャッチフレーズ。ただこれを真に受けて読むとほぼ確実に肩透かしを食う(理由は後述する)。

(あらすじ)「艮」―「丑寅」。鬼門と呼ばれる不吉な方角を表す(節分でおなじみの鬼の角が牛の角、履物の柄が虎なのもここから)。
この鬼門は作中、出版社勤めの女性樋口晶子の住む家の勝手口の位置にある。ここから死刑囚の亡霊が迷い込み彼女は様々な不幸に見舞われる―
結末でこの勝手口は塞がれ「めでたしめでたし」―と説明しても面白さが伝わらないのでもう少し話す。

まずユニークなのはサブキャラクターたちの描き方だ。
まずは由布由良と名乗る中年の女性霊能力者。樋口晶子から見ると彼女の振る舞いはいかにも銭ゲバ、インチキ霊能者のそれだが(デブ猫を飼っていたり、彼女の送った原稿を紛失したり……)、なんと本当の霊能力が(それなりに)ある。読者の持つ霊能力者のイメージを逆手に取った意外性のある設定だと思う。
それから樋口家の鬼門に当たる勝手口を塞ぐ老年の職人。彼はどうやら市井に紛れた本物の霊能力者らしい〈追記:どちらかと言うと長年に渡る職人としての勘だった、が魅力は減じない〉(彼の登場場面は少ないが筆者は生い立ちを想像してしまう)。

次に面白いのは結局話に何も進展がないところだ(欠点ではない)。
まず、この訳もわからず死刑囚の亡霊に苦しむ彼女―樋口晶子は作中を通し結局精神的には変化していない。
先に説明した二人の霊能力者のうち、由布由良のことを彼女は僅かにしか信じない(彼女の立場としては当然の反応と感じさせるのも見事だ)。老年の職人の方はそもそも霊能力者だと彼女は知らない。
彼女はただ家の勝手口が鬼門にあっただけで死刑囚の亡霊に取り憑かれ事の次第で難を逃れる。話の必然性は欠片もない。
そして死刑囚の亡霊も別に祓われたわけではない。彼はまた当てもなく(おそらくは再び鬼門に当たる入口を見出すまで)自分に殺される幻に追い立てられ意味のない逃亡劇を続けるのだ。
霊能力者の由布由良は最後この死刑囚の亡霊に取り憑かれそうになるもデブ猫オオバンの(外に漏らした)ウンコとゲロに気を取られている間に「あれまあ/あの(注:死刑囚の亡霊の)気配がどこかに行っちまった」―と難を逃れる。

まとめると―「艮」は非物語的・小説的な作品である。
物語とは必然である。卑怯者と英雄なら英雄が勝つ。小説とは偶然である。ザムザはある朝虫になる。
だから「艮」の読後感はザラザラしている。彼女―樋口晶子が難を逃れたことに何の必然性もない。何かが一つ違えば彼女は今よりもっと酷い目に(彼女の子どもと夫とともに)合っていたかもしれない。それに死刑囚の亡霊はまだいる。次は誰が犠牲になるのか。その誰かは難を逃れられるのか。何も分かりはしない。
人間の「業」は燃え盛っている。登場人物たちの生の背後には引き込まれることに抵抗できない暗い淵が控えている。
改めて「艮」の「勝手口がたまたま鬼門にあった」―原因の軽さと「死刑囚の亡霊に取り憑かれる」―結果の重さの釣り合わなさを思う。そこに私たちが納得できる説明はない。

「死神」―年配の看護師がこれまで見てきた患者たちの臨死体験を語る話。あらかじめ言うと筆者は少し苦手な作品だった。
作中で語られる死生観がその理由で、それは普通の人間には「おむかえ」―ご先祖が訪れ極楽に、殺人者や自殺者には「死神」が訪れ地獄に連れていくというものなのだが、やはり改めて読んでも納得できない。特に作中、いじめで自殺した人間にも「死神」が来るという説明には。
ただ、やはり山岸凉子氏は上手でこの死生観を読者に押し付けようとはしていない。あくまでもストーリーの積み重ねから提示しているだけだ(だから当然山岸氏の死生観と即イコールではない可能性がある)。
これは読者に対する作者の態度として極めてフェアなものだろう。
余談になるが、サリンジャーと吉本ばななという優れた作家の才能が片や東洋思想に片やスピリチュアルに呑まれ虫食いのようになったのを筆者は見てきた。作者は作品それ自体が信じさせる事柄以外に何一つ無条件に信じてはいけない―筆者はそう考える。

完全なる余談なので区切るためこの形式にした。山岸氏の作品とは関係がないので灰色の部分はすべて飛ばしていい。
「なぜ自殺者は地獄に堕ちる」といった思想は後を絶たないのか。私もこれまでの人生でこの手の話を何度か見たり聞いたりした記憶がある。
私は思うのだけど、そうした思想の背後にあるのは「自殺するような人間は(できればこの世界に)いてほしくない」という無条件の忌避があるのではないか。突き詰めたとき人間存在の否定となるが、どちらかといえばもっと無邪気な「犯罪者なんか一人もいなくなれば世の中平和なのにね」といった類の考え方だと思われる。
これはただちに否定すべき思想ではない。ただその背後に「自分(や周囲の人間)がそういうこと(自殺)になったら嫌だ」という自己本位の考えがあるのも事実ではないか。
人は―もちろん私も―今いる世界に何らかの秩序があることを信じたい―そうした欲求を常に抱えている。努力は報われてほしい。殺人犯には然るべき罰を与えてほしい。ところが「自殺」という行為はその秩序にヒビを入れる疑いそのものである。一人の人間が自ら命を絶たなければならなかった世界に一体どのような秩序があるというのか?そこで(私も含めて)人は無自覚に彼らの存在を押し殺そうとする。怖いからだと思う―自分が生きている世界の何も確かでない(信じられない)事実が。
だが、ここには深い内省も世界の不条理を受け止めるだけの死生観も芽生えない。結局突き詰めれば、「私」から「私」(とその属する世界)に向かう無限の執着があるだけだ。
筆者は親鸞の教えを信じている。詳しくは長くなるので説明しない(興味のある方は阿満利麿氏の著作を手に取ってほしい)。
そこにはあらゆる人間を包摂する救済原理がある。私たち凡夫は念仏を唱えて弥陀の本願にすがればそのまま往生する。自殺未遂者だろうとついに自殺する人間だろうと、本願にすがる者を阿弥陀仏は決して救いの対象から漏らさない。(追記:親鸞は念仏を仏の側から凡夫に差し向けられたものとしていたはずだから、この理解では自力救済的な誤りを含んでしまう。申し訳なかった。身の程知らずに説明をしようとしたのが間違っていた。もし興味がおありになる方は直接親鸞の著作を読むなり善き解説者を頼るなりして頂きたい、ただ阿弥陀仏の救済の平等性の認識は今でもその通りだと感じている)
前者と後者の思想を比べたなら、きっと後者の―親鸞の思想がより私たちの抱える生きることの苦しさや世界の残酷さ、説明のつかなさをより深く説明してくれる―筆者はそう思うのだが。

「時計草」―舞台は死後の世界。しかし燃え盛る業火も宝石の木もない。単なる公園である。
一言でまとめると深い内省を持たずに生きてきた女性が死後の世界に来て初めて反省するも結局どうにもならない―そんな話だ。
そして山岸凉子氏は人間の生臭さを書くのが本当にうまい。
たとえば、この女性が死後の世界で意識を取り戻すところのモノローグがいい例だ―「わっわたしベンチで寝込んでいたの?/まるでホームレスじゃん恥ずかしい!」―聖書でいう「冷たくも熱くもない」世俗的な人間を見事に提示していると思う。

それから、この作品もサブキャラクターが素敵なのだ。死後世界の案内人の男はスーツ姿に糸目で、飄々とした調子で彼女の生前の行いを咎める。 
タイトルの「時計草」は「時間の終わり(死)」を意味する。人生をやり直すため、受け取りを拒否した彼女は目を覚ます。
目を覚ました彼女には88歳の老婆の写真が突きつけられる。死後の世界では若かった彼女はもう臨終の瀬戸際にある老婆だった。人生の取り返しのつかなさに絶望しながら彼女は今度こそ死ぬ。
この人間への残酷さ!素晴らしい(「エイリアン・コヴェナント」といい勝負だ)。

「ドラゴンメイド」―中世版「鶴の恩返し」。
「時祷書とは日々の祈祷(祈り)や詩篇を集めた本で13世紀から15世紀に流行」った。その中に描かれたドラゴン(中世バージョン鶴)の話。
これは別の書籍で読んだ話だけど、祈祷書には重さが30キロを超すものがあり、ヨーロッパでは専用の書見台があるとか。

それから余談だけど、山岸氏の飼っている猫は「艮」の由布由良が飼っていたオオバンのモデルなのだろうか、よく似ていらっしゃる。
|(私事なので読まなくていい)我が家の猫は元々野良で成猫の今でも子猫のようだ(栄養を摂るべき時期に摂れなかったのだろう)。ブラッシングした毛の玉を渡すと小一時間遊んでいる。床に落ちているものはとりあえず匂いを嗅ぐ。いつになったら落ち着くのだろうか……それもかわいいけれど。|

帯のキャッチフレーズ「山岸凉子が描く、善と悪の彼岸」と聞くとついニーチェのそれのような壮大な哲学―萩尾望都の「残酷な神が支配する」みたいな―を持つ作品を連想するが、どちらかと言うと善も悪もわきまえない―今の生に目一杯な人々が説明不能な死後の原理に振り回され続けるその姿を「醒めた」視線で見つめるその固有の眼差しに山岸氏の作品の面白さや魅力はあるのではないだろうか。どの作品にも本当のカタルシスはなく、しかも確かに現実とはこういう仕組みかもしれないと思わせるだけの説得力がある。 「艮」、万人受けする作品ではないかもしれないが、買って後悔する作品ではない。ぜひ読んで、私の読み違いも見つけて下さると嬉しい。
長い記事だった。読んでくれてありがとう。


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