現代日本文学の「虚しさ」

さて。本記事では本谷有希子氏の作品、特に「本当の旅」を軸に、羽田圭介「ポルシェ太郎」、町田康「ゴランノスポン」をそれぞれ扱い、現代日本文学が「虚しさ」を書いていること、また、それはどのような虚しさなのか、ということを考えていく。読んだことがなくても分かるように書くので、読んでくれるとありがたい。

まず、本谷有希子氏の作品について語ろう。私は、彼女の初期作品が苦手だ。
というのは、彼女は初めが演劇出身者なので、まだ少し小説の書きかたに慣れていないところがある(ように筆者には思えた)せいだ。
(ただしタイトルは面白い「江里子と絶対」、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」など)

その感想が、「ぬるい毒」(2011年)で一気に変わった。「向伊」という、直接的な暴力こそ振るわないが、少しずつ女性の生きる力や尊厳を奪う男の悪意が女性「熊田」の目線から描かれた、非常に良い作品だった。
その後の「嵐のピクニック」(2012年)も楽しい作品だった。ショートストーリーが並ぶのだが、個人的には「アウトサイド」が良かった。

この部分はそんなに関係ないので飛ばしていい。筆者はかつて学習塾に通っていた。筆者はそれなりに楽しかったのだが、うかない顔をした者、「僕、もう疲れたよ……」という顔で天使のお迎えを待つような者たちが、確かにいた。一般に、親たちの欲望は女の子なら習い事を、男の子なら勉強かスポーツを、と割れるようだ。やりたくないバイオリンやピアノの稽古の(主に女性の)苦しみは、筆者も聞く。
「アウトサイド」はピアノの稽古の話なのだが、私は作中のピアノ教師にも、作中の女の子にも同情してしまった。筆者は思うが、ピアノなんて弾けたとして、それでいったいどうなるというのだ?教師も、親子の間の微妙な力関係がわかっていても、月謝を払ってもらう以上投げやりにも出来ない。読んでいて、世間の縮図を見る気分だった。

それから少し飛んで、本記事の扱う「本当の旅」の収録された「静かに、ねえ、静かに」(2018年)が、筆者が読んだなかで最新の「面白かった」本谷有希子作品である。

このインタビューのなかで、本谷氏自身が、「私、空疎とか空虚なものが大好きなんです(笑)。」と言っているから、「本当の旅」に虚しさを見るのは、それなりに妥当な読みだと思われる。
さて。内容についてはひとまず、マレーシア旅行に行った男ふたり、女ひとりの、一応「旅行記」と呼べなくもない内容なのだが、事実はお互いの空っぽさから目を逸らす、視点人物「ハネケン」の虚しさが強く印象づけられる作品だといえる。

ここで、他作品の紹介を先に済ませたい。
羽田圭介「ポルシェ太郎」(2019年)。長編。無理して高級車ポルシェを買った男「太郎」の顛末を書いている。
筆者が覚えているのは(記憶頼りだが)
「おじさんたちは太郎がステップアップできるように、こうしてわざとひどい目にあわせているのだ。太郎は感謝しなくてはいけないと思った。」という、太郎の自己欺瞞を語った箇所だ。

また、町田康「ゴランノスポン」(2011年)。
短編だ。主人公は実力のない歌手。あらすじと呼べるほどの大筋はない。いくつか、「本当の旅」を思わせるエピソードが並ぶ。
特に、作中で、バンドマンの一人が死ぬエピソード。主人公は葬儀に列席する。バンドマンの両親が来て、
「息子の最後に作った曲を聞いてください」
と言う。ここまでなら感動的だ。しかし、その歌詞は「ときめきナイトアンドデイ」や「突っ走れ己の道を」みたいな「サムい」もので、録音状態も悪かった。主人公は隣の女性と必死で「この曲の良さ」を探す。うろ覚えだが、
「なんというかさ」
「うん」
「独特、っていうか」
「個性的?」
「そうそう、個性的、っていうか、こんなこと普通は」
「できない、てか、やらない」
「それをやっちゃうのがさ」
「うん」
「すごいよねっ」
「ね」
といった、中身のない会話で。

さて、「本当の旅」にも、こうした「現実」と「あってほしい世界」の間の隠蔽が見られる。
たとえば、ハネケンのスマホの壁紙は「稲」だ。(筆者記憶より)「空に向かって真っすぐ伸びる姿を見る」と、「自分もこうなりたい、と強く思う」という描写が行われる。
しかし、稲の画像ごときでどうにかなる心情というのは、いかにも薄っぺらく思える。
また、作中で「細胞の声が聞こえる」という、スピリチュアルめいたマッサージ師の存在が語られる(直接出ては来ない)。
スピリチュアルというのも、遠くにある「死」という事実から目をそらし、「生活」にこと細かなルールを設定することで一時的にごまかす行為だと筆者は思う。

「生きることの追求」は、何も間違ったことではない。しかし、「本当の旅」や「ゴランノスポン」で求められる「実体のない幸せ」、「ポルシェ太郎」で求められる「ポルシェ」といった「モノ」への追求、それらは全て「死からの逃避」に成り下がっている。そこにあるのは、実感として自らの生を確認できない虚しさと、それを埋めるために行われる中身のない消費行動である。

2010年代にかけて、各作家がこれほど共通して「虚しさ」を書いた背景にあるのは、現代日本における、人の生の確立の困難さではないだろうか。
羽田圭介氏に、「ワタクシハ」(2011年)という就活を題材にした小説がある。また、町田康氏の方でも「二倍」(「ゴランノスポン」収録)という、やはり「仕事」を扱った作品がある。
前者で筆者が覚えているのは、主人公の恋人の話だ。
彼女は女子アナ(思えば奇妙な呼び名だ、なぜ「女性」アナではない?)志望なのだが、
その履歴書がひどい。たくさんの、鮮やかなラインマーカーやラメ入りペンで飾られているのだ。彼女はペン習字講座まで受ける。
にも関わらず、履歴書は一次選考を通らないことも珍しくない。
こうした状況下で、人が自らの尊厳を守ることは難しい。

後者では、ある日演技会社に入社した男が、またある日、演技でクビになる。が、演技の演技だから本当にクビになったのだ、という寓話のような小説だ。ここでも、些細なことから会社をクビになる男の姿が記憶に残る。

本記事とあまり関係ない話。町田康という作家は現在、どういうふうに読まれているのか。筆者は勝手に、「和製カフカ」と思って読んでいる。「ホサナ」なんか、(いい意味で)退屈で、(いい意味で)無駄に長いところが、カフカの「城」そっくりではないか。カフカの小説も有名な「変身」といい寓話的である。似ている。彼の小説は関西弁とかハチャメチャなストーリーとかがピックアップされがちだが、本来は「不条理」を飽くなき態度で語ったカフカの系譜にある作家ではないか。

現代日本において、「就職」を抜きに生きる道筋は多くない。一方的に行われる「選別」と、望まない「労働」のなかで、マルクスじゃないが、私たちは「疎外化」されていく。仕事と自らの間に関係性が見えず、本来は自分に属する命を「社会のために!」「人は一人じゃ生きられない!」などの「正しい」言葉にすり減らされていく。

現代日本文学はそうした困難さのなかで、今はまだ、その困難さを可視化することに留まっている。答えはしかしあるのか。





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