読むな!古井由吉「杳子」を。

えー、まず、この記事を開いた人が、古井由吉というおっちゃん(というかじいさん)をどんだけ知ってるかはよくわからんのだがひとまず、「杳子」から古井由吉に入るのを、私はおすすめしない。
話が早速横に逸れるが、大江健三郎も「飼育」から入るな。

さて、なぜこんなことを書くのか。理由は簡単。「杳子」が芥川賞を取っているせいだ。芥川賞取っている分、知名度がある。そこで、みんなまず「杳子」から古井由吉に入ってしまう(そして出ていってしまう)。

「なに読めばいいかわかんないなあ」、そんなときはまず「芥川賞受賞作」……それが間違いなのである。
まず、芥川賞というのは「新人賞」である。ゲームなら「ベンチャーゲーム大賞」。あなた方はゲームをまず買う時、いきなりベンチャーゲームを買うか?まずは任天堂なり、スクエニなり、大手から買うのではないか。
だから、芥川賞というのは「大手にはできない実験的なことやってるよ!(その分ボリュームや面白さやシナリオは劣るけど)」そういう賞であって、私も、芥川賞(と三島由紀夫賞)作品を読むときは、「よし、時間をドブに捨てるぞ〜!」と思って読む。それくらい、良し悪し混ざっているのだ。
だから、「杳子」から古井由吉に入るのは、私はまずおすすめしない。

古井由吉という作家は、「狂気」を書き続けた作家だ。それは確かに、「杳子」から変わらない。
ただ、「槿(あさがお)」までは、古井由吉作品では基本女が狂っている。そして男は巻き込まれて狂う。この時点の古井はまだ図式的で、書かれる女性にも今ひとつ生命がない。

それが、「山躁賦」あたりから、男のほうが(というか、古井由吉が)狂い出す。もう、「ヒャッハー」という感じに。そして文章はくだくだと長くなり、一般読者は置いていかれる。
と、いう誤った印象を直してもらうために、私は今から「春の坂道」という作品を通して、古井由吉中後期作品を(半端な読者なりに)、主に短編からまとめてみようと思う(長編にチャレンジするのは止めないが、私には手も足も出なかった)。

まず、まずだ。古井由吉中後期作品では、「私」が語り手に来る。これはいい。だが、話していることが分かりづらい。主語が気を抜くとどこかに行く上に、文章はばかみたいに長い。
なんでこうなるのか。結論。あれは、「仙人」の語りなのだ。
そう、「仙人」。仙人って、めっちゃ長生きじゃん。で、ちょっと一般人とは、違う感覚で生きてるじゃん?あれあれ。喋ってるのが、仙人なの。もう、スーパー長生きしてる、スーパー仙人。
で、なんか、なんの話してるん?と思ったら、「仙人が教えを説いてる」と思え。「白暗淵」から「われもまた天に」(遺作)まではこれで多少マシに読めるはず。

あと、中期は読むな。「眉雨」とか「聖耳」(もう後期かな)など面白いのはあるが、全体的に難解極まる。どういうわけか古井由吉という作家は初期がそれなりに読みやすい、中期(「仮往生伝試文」とか)がクソミソに読みづらい、そして後期もそれなりに読みやすいという、謎の三部構成になっているのだ。古井由吉中期は読むな。ハマればハマるが、ハマらないとひたすら苦痛の時間が続くだけだ。

で、困るのは古井由吉作品を要約するのは、至難の技だということ。今から、「雨の裾」という後期の短編集のあらすじを持ってくる。読み飛ばしていい。
「老境にさしかかった男の、つれづれに蘇る遠い日々の記憶。うつつの中の女の面影、逝ってしまった人たちの最期のとき。過去と現在を往還しながら、老いと死の影を色濃くたたえる生のありかたを圧倒的な密度で描く、古井文学の到達点。」(講談社ホームページより引用、問題あったら消します)

……何を言っている?
これが後期古井由吉最大の問題点で、読んだ感想が、「男と女の本質とは死だ」とか、「人の日々の静謐はあるいは狂気なのだ」とか、いわゆる「古井由吉的語彙」でしか言えないのだ。恐ろしい。

それで、私も色々考えてはみたのだが、ここからはもう自力で読んでもらったほうが早い気がしてきた。あらすじが書けないとなると、もう全部中身を書くしかないし。
ただ、さっきの「雨の裾」のなかの「春の坂道」はまだ、まだ分かる。というわけで内容紹介。ネタバレなので気をつけて。
『春の坂道』


一言でいうと、ループモノ。仙人古井がいつもの通り、なんかいろんな時代時代の、身の上話を喋っている。なるほど、仙人の話は不思議だなあ。そう思っていると、最後に作品内で語られた中年の時間と、青年の時間が、ふっ、とつながる。まるでメビウスの輪のように。すごい。よくわからなかった聖書のたとえ話みたいなのが、「ぱらっぱー!」とつながる。もはやミステリーと言ってもいい。

本当はもっと色々紹介するべきだ。「やすみしほどを」(「やすらい花」収録)は最後が「連歌」で終わるし(ぜひ読んでみてくれ)、「半日の花」(「辻」収録)は中期古井の感じが残る後期古井(ややこしい)で、難しいが私の愛する短編だ。

私から言えることとしては、古井作品を楽しむコツはそんなに肩に力を入れず、よくわからなかったら撤退すること。十年後読めば分かるさ。何しろ向こうは仙人、我ら凡人とは生きるスケールが違うのだ。気楽に読むのが、古井作品を楽しむコツである。
あと、老年の人間の実感が書かれているのも、個人的に好きなポイント。作家(に限らず、人は、ちょっと主語がでかすぎるけど)意外と老年を書かず語らず、自らが若い時代に留まろうとする。まだ自分の人生が多くの可能性で溢れていた頃に。言い方は悪いが、「逃げこむ」。私も、かつて若々しい才能で輝いていた作家が、見る影なく自己模倣に陥る姿をそれなりの数見てきた。
古井由吉という作家は、「逃げない」。老いから、資本主義の行き詰まった現在の日本から、書くことの困難から。
仙人といったが、実際古井由吉はかなり実験的な、「若々しい」作家でもあるのだ。その作品はマンネリズムだ、古典演劇(型が決まっている)だと揶揄されてきたが、そんなことはない。作品ごとに、少しずつその立ち位置を変えている(確かに話が作品間で多少被ってはいる、が許容範囲だろう)。
ちなみに、彼は芥川賞選考委員の際に中村文則を推している。そう思って読み返すと、「銃」や「遮光」はかつての古井の気配を感じるといえば感じるのだ。中村文則も、人間の狂気を書いた作家だった。個人的には短編「糸杉」と「信者たち」(共に「A」収録)はそれぞれ、初期、後期古井を感じる。

(ここから読まなくていい)
中村文則は、今の「掏摸」、「カード師」みたいな、エンタメを盛り込み社会問題も扱う大部の作品も嫌いではないけど、個人的には男と女の共依存というか、どこにもいけない関係を書いている中村文則が好き。「土の中の子供」とかね。
あと、古井由吉は競馬好きでもある。書いたので私が知ってるのは、「中山坂」(「眉雨」収録)くらい。そこから入るなら止めないが、それなりに難しい中期の古井なので、よく覚悟を。
ちなみに古井由吉は内向の世代。勤め人をやってから作家になり、「子持ち新人」と馬鹿にされた世代でもある。他に後藤明生、小川国夫など。




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