川端康成文学賞作品紹介(その二)

ちょっと困った。

と、いうのは最近の川端康成文学賞は、作品の出来がピンキリなのだ。

晒し上げるようで申し訳ないのだが、辻原登「枯葉の中の青い炎」は物語的面白さがわずかにあるだけで、短編連作の形も、それほどと思えなかった。上田岳弘「旅のない」はコロナ禍を書いた小説だが、それ以上でも以下でもない。

だから、ここからは筆者が読んだなかで気に入った作品だけ書く。

第二十九回受賞:堀江敏幸「スタンス・ドット」

まず、本作は「雪沼とその周辺」という作品の連作の一つ。
「雪沼」というのは、架空の地名。解説では「歌枕」のようなものだと説明されていた。
「桜は吉野、紅葉は竜田」、和歌の歌枕というのは、示すだけで作者の感情を表す(これはかなり世俗的なものだが)。

堀江氏の作品は筆者に、小川洋子氏の作品を思わせる。

(完全に筆者の個人的意見だ)両作家の書く小説の人物には、奇妙に「生」の気配が感じられない。
私も詳しくないが能で、幽霊が生前の恨みをかき口説くという。両作家の人物は少し生への執着が弱いが、その幽霊を思わせる。

「スタンス・ドット」は、長年経営してきたボウリング場を老人が閉めるその日に、二人のカップルがやってくる。老人の人生が、「雪沼」の降りしきる雪のなかで、静かに語られるが、老人はやはり幽霊的だ。

第四十回受賞:戌井昭人「すっぽん心中」

村上春樹作品を思い出した。主人公は事故に会い、モモという女の子とすっぽんを捕まえに行く。
話としてはなだらかで、結局、すっぽんは捕まるも、「野生のは泥臭い」という理由で店には買い取ってもらえない。それでもラストは明るいからふしぎだ。

個人的に、吉田修一氏の「パーク・ライフ」を思い出す。どちらも、「生きることの免除」が生みだす、昼休みの楽しさがある。

(番外編:第四一回受賞:大城立裕「レールの向こう」
沖縄県の作家。「カクテル・パーティ」で芥川賞受賞。

「カクテル・パーティ」で書かれた沖縄とアメリカの問題は、ずっと何も変わらない。私は内地の人間だが、沖縄は日本の捨て石扱いだったと、改めて思う。

対談を載せておく。

さて、この作品なら番外編にする必要はないのだが、川端康成文学賞受賞作品「レールの向こう」は、ちょっと、問題のある作品なのだ。
単純に言うと、老年の大城氏を思わせる語り手が、年老いた脳梗塞を患う妻や、友人真謝志津夫との関係を語る私小説風の短編。
なのだが。筆者はどうしても受け付けない部分があった。

妻が入院している。このとき、夫は「秋に着られるシャツがどこにあるのかわからない」のだ。
いや、筆者の読み落としがあるのかもしれないが、ここまで「自分のケアができない」のはなあ、と、ちょっと引いてしまった。)

第四十七回受賞:滝口悠生「反対方向行き」

あらすじとしては乗る電車を間違えた女性が過去を思い出す話、なのだが。

筆者は滝口氏の作品は「死んでいない者」と「茄子の輝き」を読んでいる。それで思うが、彼の小説は、あらすじだけ聞くと死ぬほどつまらない。
たぶん、読者もこの「反対方向行き」のあらすじを見て、「つまらなそう」と思ったのではないか(タイトルもあっさりしている)。

筆者の考えとしては、滝口氏は「時間」の作家である。個人的に古井由吉氏を思い出す。

たとえば、一月や、一年という時間がある。一週間でも一日でも良いが、とにかく、ある「時間」がある。
そこで、私たちも生きている。「本当は時間などない、政府の陰謀だ」という読者もいるかもしれないが、まあ、九割六分の日本国民はそうした時間で生きている。
しかし、あとから思い返すとその「時間」はひどく曖昧なものだ。外枠で、こういうことがあった、いや、ああいうことがあった、というところまでは言えても、実際何をしていたかは記憶の樹海行きである。
滝口氏は、そうした「ぽかん」と過ごした時間を、さっと捕まえる。

この「反対方向行き」も、そうした時間を捕まえる滝口氏の手腕が見れる作品となっている。ぜひ読んでみてほしい。

(おまけ)川端康成の短編を、川端康成文学賞に選ぶならどれだろう。
「伊豆の踊子」はひねりがない。「雪国」のどこかの章でもいい。「眠れる美女」は長いか。

完全に個人の好みで選べば、「抒情歌」―ではなく、「慰霊歌」。
作中に、こんな文章が出てくる。
「色が動いていた」

なんのことか、と思う。池の、コイの描写だ。主人公は上から見ている。
この文章が、私は好きだ。
現実に、確かに高所から見たコイの姿は「色が動いて」いるように見えるだろう。筆者なら、
「下の池では、コイが泳いでいた。パシャパシャいう水の音がした。その色味は美しく、まるで私の心を洗う絵筆のようだった……」
みたいな文章にしてしまう。これと、
「色が動いていた」
を比べてほしい。
後者の川端康成の文章の方が(当然だが)筆者の文章よりはるかに強く、美しい。小説の面白さであり、怖さでもあると思う。

(追記修正)色が「泳いでいる」だった。筆者の記憶違いである。申しわけなかった。

とはいえ、やはり主語で「色」を使うのは挑戦的で、そこに術語が加わることで、文章全体が詩的変身の気配を持っているのは、変わらない。

(追記)冒頭辻原登、上田岳弘両作家の悪口を書いたが、辻原氏「枯葉の中の」は和歌山県日高町(作家の地元)の人々が愛しく書かれている。
また、上田氏の「旅のない」は(個人的に)もっと伸ばして、長編の序盤としたほうが面白くなりそうなのだが。
















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