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退職して今は無職。終日家にいて読書、もしくは好きなチャンドラーの探偵小説をぼちぼち翻訳…

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退職して今は無職。終日家にいて読書、もしくは好きなチャンドラーの探偵小説をぼちぼち翻訳しています。

マガジン

  • 翻訳修行

    趣味ではじめた、チャンドラーの長篇小説比べ読み。それが高じて、自分でも訳してみようと思い立ちました。既約の三冊を参考に、できるだけ原文に忠実に訳したいと考えています。

  • 書評

    海外文学の新作の書評。

最近の記事

五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

16マーロウはアールの何を“phony”(いんちき)と言ったのか?【訳文】 セパルヴェダ・キャニオンの麓、ハイウェイから引っ込んだところに、黄色く塗られた二本の四角い門柱があった。木枠に五本の横木を張った門扉の片方が開いたままになっていた。入り口には「 私道につき、立ち入り禁止」と書いた看板が針金で吊るされていた。空気は暖かく静かで、猫の嫌うユーカリの木の匂いでいっぱいだった。 私道に入って、丘の中腹を廻る砂利道をたどって、緩やかな斜面を上り、尾根を越えて反対側を下りて浅

    • 『狼の幸せ』パオロ・コニェッティ    飯田亮介訳

      ミラノ生まれの作家、パオロ・コニェッティは子どもの頃から夏になると一九〇〇メートル級の山地にあるホテルを拠点にして登山や山歩きを楽しんできた。三十歳を過ぎた今も、モンテ・ローザ山麓にあるフォンターネという村に小屋を借り、その土地で目にした自然と生き物の様子やそこに生きる人々の飾らない暮らしぶりをノートに書き留めては創作の糧にしてきた。デビュー作『帰れない山』以来、作家本人を思わせる一人の男の目を通して、山で生きる厳しさと愉しさを描いてきたが、今回は四人の男女の視点を借り、山で

      • 五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

        キャンディピンク色のビルは「よくある」のだろうか?15【訳文】 どんなに腕に自信があろうと動き出すには出発点が必要だ。名前、住所、地域、経歴、雰囲気といった何らかの基準になるものが。私が持っていたのは、くしゃくしゃになった黄色い紙にタイプされた文字だけだった。「きみが嫌いだ、ドクター・V。だが、今はきみが頼りだ。」これでは、太平洋に狙いを定め、ひと月かけて五、六 か所の郡医師会のリストを調べてみても収穫はほぼゼロだろう。我々の町では、もぐりの医者はモルモットのように繁殖する

        • 五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

          ”Desert Rose”は薔薇ではない。砂漠で採れる石だ。14【訳文】 翌朝、耳たぶについたタルカム・パウダーを拭いているとベルが鳴った。 玄関に行ってドアを開けると、一対のバイオレット・ブルーの瞳があった。 彼女は茶色のリネンを着て、赤唐辛子(ピメント)色のスカーフを巻いていた。イヤリングや帽子はなかった。 少し青ざめていたが、階段から突き落とされたようには見えなかった。 彼女はためらいがちな笑みを浮かべた。 「お邪魔するべきでないことは知っています、ミスタ・マーロウ

        五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

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        • 翻訳修行
          80本
        • 書評
          71本

        記事

          五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

          山羊はビール瓶の破片を食べるか?13【訳文】 午前十一時には別館のダイニングルームから入って右側の三番目のブースに座っていた。壁を背にしていたので、出入りする客を見ることができた。よく晴れた朝で、スモッグはなく、上空の霧もなく、眩いばかりの陽光が、バーのガラス窓のすぐ外からダイニング・ルームの一番奥まで続くプールの水面をぎらつかせていた。白いシャークスキンの水着を着た、官能的なスタイルの若い女が飛び込み台の梯子を登っていた。 日に灼けた腿と水着の間に白い肌が帯のようにのぞい

          五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

          『教皇ハドリアヌス七世』コルヴォー男爵 大野露井 訳

          今年の翻訳大賞はこれで決まりだ。もう何年も前に『コルヴォー男爵を探して』(A・J・A・シモンズ、河村錠一郎訳)を読み、「これが今まで本邦初訳であったのがちょっと信じられない。稀覯本に限らず、奇書、珍書に目がない読者なら何を措いても読まねばならない一冊」と書いたことがある。そのコルヴォー男爵こと、フレデリック・ロルフの代表作『教皇ハドリアヌス七世』の本邦初訳である。 待つこと久し。待ちわび、待ちあぐね、ついには老齢のせいもあって、待っていたことさえ忘れ果ててしまった今ごろにな

          『教皇ハドリアヌス七世』コルヴォー男爵 大野露井 訳

          五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

          “swing arm”はキツツキの翼か?12【訳文】 その手紙は階段の下にある赤と白に塗られた巣箱の形をした郵便受けに入っていた。支柱から張り出した腕木に取り付けた巣箱の屋根の上でいつもは寝ているキツツキが起きていた。それでも、ふだんなら中を覗かなかったかもしれない。自宅に郵便物が届くことなどないからだ。ところが、キツツキの嘴の先がなくなっていた。折れ口は新しかった。どこかのはしっこい子が手製の原子銃で吹っ飛ばしたのだ。 手紙には航空便(Correo Aéreo)と記され

          五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

          五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

          “perfect score”は「満点」のこと11【訳文】 朝、髭を剃り直し、服を着て、いつものようにダウンタウンに車を走らせ、いつもの場所に車を停めた。私が時の人であることを駐車場係が知っていたとしたら、素振りさえ見せないプロの仕事だった。私は二階に上がり、廊下を通ってドアの鍵を開けた。色の浅黒い、世なれた風の男がこちらを見ていた。 「マーロウか?」 「だとしたら?」 「ここにいろ」と彼は言った。「あんたに会いたがってる人がいる」彼は壁から背中を引き剥がし、気だるそ

          五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

          五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

          10(turn+目的語+over)は「物事をあれこれ考える、熟考する)という意味 【訳文】 ポケットを探って所持品預かり証の控えを渡し、現物を確認してから原本に受領のサインをした。身の回り品をそれぞれが収まるべきポケットに戻した。受付デスクの端に覆いかぶさるように凭れている男がいた。私がデスクを離れると、背筋を伸ばし、話しかけてきた。背丈は六フィート四インチほどで針金のように痩せていた。 「家まで乗せていこうか?」 わびしい明りの下では、年齢の割に老けた若者のように見

          五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む

          五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む」

          9“up (down) one’s street”は「お手のもの」 【訳文】 早番の夜勤の看守は肩幅の広い金髪の大男で人懐っこい笑みを浮かべていた。中年で、もはや哀れみや怒りからは縁遠くなっていた。何事もなく八時間をやり過ごすことが望みで、たいていのことは卒なくこなしているように見えた。彼が私の房の鍵を開けた。 「お客だ。地方検事局から男が来てる。寝てなかったのか?」 「寝るにはまだ早い。今、何時だ?」 「十時十四分」彼は戸口に立ち、房内を見渡した。下の段には毛布が一

          五冊の『ザ・ロング・グッドバイ』を読む」

          『夜のサーカス』エリン・モーゲンスターン 宇佐川晶子訳

          十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、ロンドンを拠点として世界各地を飛びまわるサーカスがあった。<ル・シルク・デ・レーヴ>は普通のサーカスではない。日没から夜明けまでしか開かない<夜のサーカス>なのだ。まだまだ都市近郊に野原や空き地があった時代。予告もなしに、そのサーカスはいきなりやってくる。昨日まで何もなかったところが鉄柵で囲まれ、柵沿いに伸びる遊歩道の向こうに、白と黒の縞柄で統一された高さも広さも様々なテントの群れが忽然と姿を現す。 シーリアは魔術師プロスぺロことヘクター

          『夜のサーカス』エリン・モーゲンスターン 宇佐川晶子訳

          『夕霧花園』タン・トゥアンエン 宮崎一郎訳

          テオ・ユンリンはマラヤ連邦裁判所判事を定年まで二年残して辞職した。誰にも言わなかったが、少し前から突発的に言葉の意味が理解できなくなる事態が生じていたからだ。優秀だが厳しいことで知られる判事だった。彼女には封印した過去がある。十九歳の時、日本軍がマラヤを強襲し、三歳年上の姉と共に強制収容所に入れられた。手袋で隠された左手の小指と薬指は、二本の鶏足を盗んだ代償として切断されていた。 彼女は生きて出られたが、姉のユンホンは生きて収容所を出ることはなかった。彼女は姉を見捨て、ひと

          『夕霧花園』タン・トゥアンエン 宮崎一郎訳

          四冊の『長い別れ』を読む

          8“get a lot of business”は「もうかる」という意味 【訳文】 重罪犯監房棟の三号監房には寝台が二つ、寝台車(プルマン)スタイルでついていたが、混みあっていないようで房を独り占めできた。重罪犯監房の待遇は上々だ。特に不潔でも清潔でもない毛布が二枚と格子状に交差した金属板の上に敷かれた厚さ二インチほどのごつごつしたマットレス。水洗式便器、洗面台、ペーパータオル、ざらざらした灰色の石鹸もある。監房は清潔で消毒臭もしない。模範囚の仕事だ。模範囚の成りてはいく

          四冊の『長い別れ』を読む

          古書の山から掘り当てた詩集が時空を超えて呼び寄せる、運命的なめぐり逢い

          『時ありて』イアン・マクドナルド 下楠昌哉 訳ロンドンにあるアパートの一室で本に埋まり、ネットで古書を売っている「私」は、有名な古書店の閉店に伴う在庫の処分品の中から、一冊の本を掘り当てた。E・L著とイニシャルだけが記された詩集で『時ありて』というタイトルだ。第二次世界大戦が専門分野である「私」は、普段なら手を出さないところだが、なぜか好奇心が働いた。刊行は一九三七年五月、イプスウィッチ。出版社は記されていない。紙も表紙の布地もいいものが使われている。中に何かが挟まっている。

          古書の山から掘り当てた詩集が時空を超えて呼び寄せる、運命的なめぐり逢い

          四冊の『長い別れ』を読む

          7“ice cream cone”は「アイスクリーム」のことではないかもしれない【訳文】 その年の殺人課の課長はグレゴリアスという警部で、稀少になりつつあるが絶滅することはないタイプの警官だった。眩しい電球、しなやかな棍棒、腎臓への蹴り、股間への膝蹴り、鳩尾への拳、首のつけ根への警棒の一振りで犯罪を解決するタイプだ。半年後、彼は大陪審で偽証罪で起訴され、裁判を受けることなく解任され、その後ワイオミングの自分の牧場で大きな種馬に踏みつぶされて死ぬことになる。 今は私が餌食だっ

          四冊の『長い別れ』を読む

          四冊の『長い別れ』を読む

          6“count the spoons”は「スプーンの数を数える」でいいのか?【訳文】 ティファナからの長くてうんざりする帰り道は、州内でもっとも退屈なドライブのひとつだ。ティファナには何もない。あそこで人が欲しがるのはドルだけだ。子どもが車にすり寄ってきて、ものほしげな眼を大きく開き「十セントください、ミスタ」と言う。次に出るのは姉を売りつけようとする文句だ。ティファナはメキシコではない。国境の町はどこも同じだ。港町がどこも同じであるように。サンディエゴ? 世界で最も美しい港

          四冊の『長い別れ』を読む