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架空の劇団第22回公演「到達!」の上演についてその5

 緊急事態宣言が解除されて、事態は刻々と変化しているところですが、日々、とりあえず稽古しています。そろそろ公演の詳細が固まってくる頃だと思います。

 さて、前回の続きというかなんというか。
新型コロナウイルスの感染リスクは、密接、密閉、密集の三密といわれています。演劇の現場は、稽古も含めて、大体それを満たすような状況になっていたりします。
 演劇は直接であったり、密着であったり、濃密なコミュニケーションであったり、というところに価値があるわけで、三密を避けたら、演劇の魅力のかなりの部分は減衰してしまうと思うのです。どんな名作舞台も映像で見ただけでは、その本当の価値はわかりにくいと思います。
 なので、いまリモートで演劇を配信したり、作品づくりをしている人たちはホントにスゴいなと思います。演劇の価値が減衰することがわかっていながらも、それでも何とか新しい形の演劇を作ろうともがいている。恐らくそれで新しい、価値のある演劇も生まれてくると思います。
 さて、では自分でそれが出来るのか? やりたいのか? と考えると、やはりそうではないのです。次善の手段として、配信や映像も考えるのですが、まだそれで新しい価値を生み出せるとまで考えが及んでいないのです。
 わたしたちは東日本大震災を経験しました。北東北三県は直後から停電で、ほとんどの電化製品や通信手段が役に立たなくなったのを身をもって知ってしまったのです。何というかテクノロジーに裏切られた気がしたのです。
 徐々に電気が復活し、テレビではその惨状を伝え続けていました。余りの惨状に、テレビを消したり、レンタルビデオに走ったり、外に散歩に出かけたり、そして、人に会ったりしました。この時の他人との直接的なふれあいが、どんなにありがたかったか覚えている人も多いでしょう。かく言うわたしも誰かと直接会って顔をつきあわせて話したり、買い物の列に並んだりして知り合いを見つけて声を掛け合ったりすることで、救われたことも少なくなかったと思います。
 演劇の世界では、震災直後に野田秀樹さんが「蝋燭一本があれば、どんな時でもやれる。それが演劇だ」と言っていたのを見て、意を強くしたりしたものでした。

 そして今回の新型コロナウイルス蔓延です。これは東日本大震災で救われたことをことごとく否定するような人との接し方を強要します。そしてそれは、すぐには終わらない。
 このことは、劇場を含むライブエンターテインメントなどの開催方法について、一定の方向転換を迫るものになっています。今のところ、劇場ではクラスターは出ていませんが、新しい生活様式などという、よくわからない基準を適用すると、もはや興業は難しいのではないかという気さえします。
 状況劇場、唐組は狭いテントにギチギチに身を潜めながら見るのが醍醐味だし、ライブハウスでのモッシュなんかもそうで、蘇民祭なんかは言うに及ばず、なんか密集してうごめいていること自体に得体の知れない快楽があったりするものです。
 そういうことがまるごと「ダメ」って言われているような気がします。そういうことを含めて、なんというかモチベーションが上がらないのです。
 しかし、連休後、とりあえず盛岡劇場が使えるようになり、稽古場でみんなと顔を合わせると、少ないながらもモチベーションが上がっていきます。やはり直接顔を合わせて、セリフを合わせると、それだけでもうなんというかいろいろ違うのです。
 ああまた長くなってるのでまた続く。写真は最近の風景。岩手山となぜか道路に点々と落ちていたアメと青空。


2020年7月上演、架空の劇団第22回公演「到達!」の前にFacebookに書いたもの。この頃はまだ、岩手ではコロナ患者は確認されていませんでした。

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