第2部あらすじ300字 知事官舎の敷地内にある車夫勘吉の家には、知事邸の女中や近所の女たちがいつも集まっている。ここ最近の話題は、荒れ果てたお城山を公園に、という街中での噂話。勘吉の妻吟子は、知事への進言をお願いするが「女は家のことだけやっていろと」言われ激怒。同じ頃、女中頭の林歌子も、中級武士の家柄として、荒れ果てた城跡に心を痛めていた。さらに北条知事の下で、宴会が増えたため、子作りの暇もない秘書の妻が訪れ、泣きながら現状を訴える。 そんなとき、知事の妻菊子が、勘吉の家
登場人物 タバコ男 先生 ナース 白鳥 タバコ男登場、頭にタバコのかぶり物をかぶっている。 タバコ男 ここが敵の基地、禁煙外来だな。我々タバコの存在を脅かすこんな禁煙外来をのさばらせとくわけにはいかん、ぶっつぶしてやる! ナース白鳥、タバコ男の背後から登場。 白鳥 どうなさいました? タバコ男 うわあ!(やたらとびっくりする)不意打ちとは卑怯なやつめ! そっちがそのつもりならこっちだって・・・。 「うおおおー」とか
コンセプト 今回の作品は、架空の劇団が誇るもう一人の座付き作家、高橋拓による新作です。2013年11月に上演された「まるで血を塗ったような月が降りてくる~月下の一群 亜米利加編」以来、2年ぶりとなります。 これまで、高橋は、詩人をモチーフとした『月下の一群シリーズ』のほか、歌人や歴史上の人物などが登場する作品を得意としてきました。 今回は、2009年8月に上演された「風流怪談シリーズ」のPARTⅡということで、伊勢物
「寺のショウソウ2001」 あらすじ とある初夏の昼下がり、この日は照妙寺にとってとても重要な日である。と言うより、住職の忠房(ちゅうぼう)にとって憂鬱な日である。と言うのも、まだ未成年の長女しずかが、付き合っている男、竹花を連れてくるからである。 ただ付き合っているだけならまだしも、事もあろうにしずかはその彼と結婚したいというのだ。しかも竹花は寺の檀家で、年は四十四。厄年も終わってしまったようなそんな年齢なのである。 実はその竹花、かつて忠房が教職にいた時代の教え子でもあ
お寺シリーズは、「寺で結婚話」を基本コンセプトに、1997年の「寺のショウソウ」から2001年の「仏壇のない家」、2006年の「はなやもめ」にいたる、一連の作品です。 「寺」という、一般的には、人生の終焉を司る象徴の場所に「結婚」という、一見、寺とは縁遠い出来事を展開させ、普遍的な家族の物語を紡ぎ出そうとする試みでした。 幸い、浄土真宗大谷派「専立寺」の皆さんの献身的な協力に支えられ、「お寺シリーズ」は、いずれも好評のうちに幕を閉じました。 今年、架空の劇団が復活15周年の節
実は拓さんの作品を再演するのは初めてのことだ。わたしよりずいぶん多作な拓さんは、新作が次々に出てきてしまうので、再演をするヒマがなかった。今回そんなわけで、再演してみることになったのだが、劇場版であることや、初演の寺の雰囲気などを考えると「初演のが良かった」というような声は必ず聞こえてくるだろうと予想している。とまあこんな風に言っとくと、そう言いづらくなるだろうという予防線を張っておく。 役者は初演のキャストを揃えるつもりだったが、諸般の事情で一人入れ替わっている。この、
その作品は第26回小川未明文学賞受賞作「スケッチブック~供養絵をめぐる物語」。作者のちばるりこさんは、盛岡在住の童話作家で、原作を読んだくらもちが、舞台化を切望し、快諾いただきました。 出版された作品の主人公は、小学6年生という設定でした。かなり大人びているなとの感想を持ち、作者に話を伺うと、読者ターゲットを小学生まで広げる都合で、書き直したとのことでした。そこで、原作の原作、受賞作を読ませてもらうと、主人公の設定は中3となっていて、なるほどそちらの方が納得させられる話だ
「スケッチブック-供養絵をめぐる物語-」を読んで、素直に感動した。と同時に「これは芝居になる」という直感が走った。その直感に従ってここまでたどり着いた。 恐らく、旧知でなければ手に取ることはなかったかも知れない作品だ。児童文学とは、わたしにとって、子どもの教科書や絵本の世界で、インスピレーションの一助や、劇中のパーツとして一部を拝借したりはするものの、原作として舞台化することがあるとは想像していなかった。 それが「芝居になる」という直感を得てしまったもんだから、しかも見
人類史をテーマに芝居を書こうと思った。 ここ三十年くらいの間で、人類史や日本人の成り立ちについて、新たなことがわかってきている。それは急速に進んだDNA鑑定の技術革新が大きな理由のひとつで、ミトコンドリアDNAの分析によって、現生人類(ホモ・サピエンス)の起源がアフリカの一人の女性であることがわかったり、核DNAの分析により、白人や黄色人種は、ネアンデルタール人の血が混じっていることがわかってきている。 ミトコンドリアDNAは、変異を起こしやすいらしく、比較するとどのく
赤いナポリタン 本紙編集委員 くらもちひろゆき 食卓に向かい合い、いつもより赤いナポリタンを食べる夫婦の姿。夫に殺されたはずの妻は、復讐なのかそれとも愛情なのか、ともに吸血鬼として生きて行くであろう未来を予感させている。音もなく降りてきた食卓の明かりが、2人だけを照らし出し、この作品は終了する。 ここまで来て初めて「なるほど、吸血鬼という要素は必要不可欠なのだな」と得心がいった。途中までは、夫婦の不倫の話が、吸血鬼の話とフィットしてないんじゃないかという疑念を持ちなが
毒のせいで誰も見る人がいない満開の桜。そんな風景からこの作品は発想されました。 梶井基次郎は、桜の樹の下には屍体が埋まっている、と言い、坂口安吾は、桜の森の満開の下に人間の狂気を描きました。 満開の桜は、限りなく「死」を連想させるもののようです。この作品は、一人の青年が八本桜の真ん中に迷い込むところから始まります。そこには、身近な人やまわりの人の死をきっかけに、そこからは誰も戻って来ない、といわれる「八本桜」の輪の中に迷い込んだ死霊たちがいて、なぜここに迷い込んだのか、身
ふと気づけば専立寺で公演をするのも4回目となっている。「風流怪談シリーズ」は常に専立寺とともにあって、そのうち第14回と第17回の盛岡市民演劇賞大賞をいただくという、縁起の良い会場なので、今回も取りに行くことにしたい。 というのも、今回の出演者は座長クラスが結構いて、お久しぶりと初めましてのメンバーとの組み合わせも新鮮。何というかみんな芸達者なのであちこち見所なのである。うっかり演出を忘れて見入ってしまうこともあったりして、それはそんなに悪いことではないなと思っている。
今回の台本を「さて書き始めよう」としたあたりでの新型コロナウイルス感染症の拡大だったので、なんというか、書き上げたプロットの前提条件みたいなものが、微妙にシフトしていると感じてしまいました。 事態がどのように動くのかわからず、そして3月の頭には、恐らく大していろんなことを考えないままに発令された緊急事態宣言によって、学校が休校になり、卒業を間近に控えた高校生の卒業公演なども含めて、演劇の公演は中止や延期になりました。 演劇やその他エンターテインメントで生活しているみなさん
緊急事態宣言が解除されて、事態は刻々と変化しているところですが、日々、とりあえず稽古しています。そろそろ公演の詳細が固まってくる頃だと思います。 さて、前回の続きというかなんというか。 新型コロナウイルスの感染リスクは、密接、密閉、密集の三密といわれています。演劇の現場は、稽古も含めて、大体それを満たすような状況になっていたりします。 演劇は直接であったり、密着であったり、濃密なコミュニケーションであったり、というところに価値があるわけで、三密を避けたら、演劇の魅力の
いつにもまして筆の進みが遅いのですが、なんでそうなってるのかと考えると、どうにも勢いがついていかない今の精神状態があります。まあはっきり言うと「やる気が出ない」という状態ですね。ココロが折れ気味ってことです。 こんなことを書いてないで台本書きなさいよという、心の声はあるものの、何となくこのもやもやとしたものについては、一度記しておいた方がいいのではないかと思うので、つらつらと書き殴ってみましょう。 医学も公衆衛生も社会学も心理学も専門家ではないので、なんとなあくこんな感
そんなわけで、架空の劇団第22回公演、何となく実況しながら演劇「到達!」、みなさんにお送りする第一弾の公開、初期型プロットの紹介をします。初期型なので、この通りになるとは限りません。なぜなら、これはコロナ騒動が始まる前に書いたものだからです。 コンセプト 短い場面をつないで、大きな物語を伝える。 それは、人類が最果ての地「日本列島」に到達した物語である。 だからといって、壮大な設定で大陸から日本列島にやってきた、みたいな流れにはならない。描かれるのは日常でありそうな、ちょ