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高麗川で渡来人に思いを馳せる(3)

前回の記事はこちらです


聖天院を離れ、次なる目的地を目指します。

途中、道端で漬物が売られていたり、

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スピード出し過ぎを注意されたりしつつ、

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普通の道ばかりでなく、川沿いの道も行きます。

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ここでエネルギーが尽きかけたので、「かにや」さんで買ったおはぎ……もとい、ぼた餅……ならぬ「ぼったら餅」をパクパク。

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中の餅米の、粒がしっかりと形を保っているのが、普通のぼた餅とは違いました。
(ふだんなら、その餅の写真を撮るところですが、この時は余裕がなかったようです 笑)

元気を取り戻し、先へ、先へ。

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川がクネクネ蛇行しているので、道に戻ったり、川沿いに戻ったり、さらには若き日の渋沢栄一も通ったという古道も抜けて、到着したのは「高麗郷古民家」。

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え? 民家? という大きさですが、江戸時代には名主、維新後は戸長や村長も務めた新井家のお屋敷です。

農民だったとのことで、そういう意味では民家ということになるのでしょうか。

ただ、開館時間が16時まで。

このときすでに、15:55。

ほんの少しの滞在時間時間となってしまったので、外観を見るだけにとどまりました。

それでも、解説員の方が説明をしてくれたので、概略を知ることができました。

母屋は江戸時代末期から明治時代前半に建てられたもので、改修が何度か行われているため、建築当初とは形式が変わっているとのこと。

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客殿は明治39年に建てられたものだそうです。

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古民家を後にし、日高市立高麗郷民俗資料館へ。
この辺りについての解説動画を視聴しました。

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ここも時間が押し気味だったためこの動画を見終わると、展示物はさらりと眺めるにとどめて……

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巾着田きんちゃくだへと足を進めました。

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この表記もありながら、けっこうしぶとい草花なので見られるのでは、というお話もあったので、期待を抱きつつ先に進みます。

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「巾着田曼珠沙華公園」のゲートにも重ねて、「鑑賞できません」との立看板。

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たしかに刈り取った形跡もありました。

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一部、囲いの中に咲いているところがあって、ここだけ残したのかな……と思ったら、道沿いにたっぷり咲いているところが。

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これだけでもすごいと思ったのですが、本来はこのあたりに一面にびっしりと、彼岸花が咲いているようです。

ちなみに彼岸花というと墓地のイメージを持つ方も少なくないかもしれません。

根に毒があるため、土葬だった江戸時代に、モグラ除けのために墓地に植えられたそうで、そのためだろうとのこと。

ただ、巾着田の彼岸花は自生したもので、それが地域の名物になったわけですね。

その、地域の名物を刈り取らねばならなかった心境は、いかばかりか、と思わずにはいられません。

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彼岸花の群生地を離れ、ビオトープとなっている辺りを散策しながら、日高市の名前の由来となった日和田山も望めました。

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市町村合併の際に、シンプルに高麗市とならず、わざわざ日和田山の一字を加えたのは、高麗村・高麗川村の合併により町になったからなのでしょう。「高麗町」とすれば「川が足りない」、となるでしょうし、「高麗川町」とすれば「川が余計だ」、となる。

公募によって「日高町」に決まったとのことです。

ビオトープで、徐々に沈んでいく太陽と、カゲロウトンボや酔芙蓉、半分だけ茶色くなったいがぐりや一面に咲くコスモスを眺めてしばし物思いに……というより、暑さでやられたのか少々ぼおっとしました(笑)

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狭山茶だらけの自動販売機でお茶を買い、喉を潤しながらふと見ると、巾着田の案内板。

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四季それぞれの名物が記されていました。

彼岸花は別格として、春は菜の花、夏はハスの花、秋はコスモス、そして冬は……「曼珠沙華の葉」。

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さすがに苦しいかな(笑)

ゆうゆう泳ぐカルガモやちょっと気になるインドカレーのお店を横目に、西武線の高麗駅へ。

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こちらでこの日の散策はお開きとなりました。

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思いがけぬ暑さに身体がついていかない部分もありましたが、帰りの電車を待ちながら夕日を眺めつつ、かにやさんのお菓子を食べて心地よい疲労感に浸るのでした。

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