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スリープ状態

外部からの入力を待っている状態というものを自覚している。
なんとなく、誰かからの連絡を待っていたり、新しい情報を待っていたりする状態、つまり、変化を待っている状態と言うべきだろうか。パソコンのスリープ画面のようなものだ。
自発的に動けない状態とも言える。
休みの日の子どもがよくそうなるだろう。
「ヒマだ」「遊びたい」「なんかしたい」
時間はあるのだから何かしら自分で考えて好きなことをすればいいのにも関わらず、何かしたいと訴える。何か行動をしたいと思っているけど、できないからもどかしい。だから親に駄々をこねるのだ。
なぜ、こういう状態になるのだろう。
一つの仮説は、アウトプットできる情報がないということだ。
自分の中に情報がないから、次の行動に移せない。次の行動に移るためには、外部からの指示がいる。インプットされる情報がいる、ということだ。
子どもは内に持っている情報が少ないから、何もない時間帯にすることが考えつかない。だから動けない。そのために、教育というものがあるのだ。
では、大人はどうしたらいいだろう。
大人には、待っていてもインプットされる情報というものは少ない。
せいぜい、「飲みに行こうぜ」とか「この書類を仕上げてください」とかくらいだ。当然、そのような依頼が来たら私は動作を再開するわけだが、同時に、そのような外部からの命令のために生きている訳ではないとも思う。
何をインプットし、次にどのように行動したら良いのだろう。
時折、このような状態を嫌って、人間は自らやるべきことを作り出し、面倒なことを作り出し、行動をしているのではないかと思う。行動するために、行動しているのだ…。
そうだ、散歩でもしたらいいのかもしれない。だが、つまりそれは、何かしらかの外部の刺激を受け取って内部にある情報の変化を見ようという試みであって、自発的な行動と言えるのだろうか。
いや、そのように行動をしようということ自体が、すでに自発的な行動なのか…。
そこに、意識の本質があるのかもしれない。
当然、意識とは何か。本質とは何か。という問題があるが。

自らの出力によって、自らの行動を決定したいと常々思う。
このnoteは自発的な行動の結果だろうか。

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