見出し画像

陸上競技を共通言語にする。の一歩目

今年の夏は暑い。9月に入ってもまだ暑さが残る。
アジア選手権に、世界陸上。たくさんの興奮を届けてくれた。名勝負に、好記録。そこに挑む選手、スタッフのストーリーは時間が足りないほどに面白い。

チームとしても96回続く関東選手権で、400mRを39.86の大会記録で優勝。ディフェンディングチャンピオンとして挑んだ1600mRも制し、関東選手権では初のリレー二冠となった。手前味噌ながら、この期間中にメンバーの一人一人のスイッチが連鎖して入っていく瞬間に出会えた気がした。我ながら良いチームだなと思えた。

そんな活躍の傍ら、自分自身は納得のいくトレーニングが継続できずにモヤモヤしている。6月に怪我をしたハムに続き、右足首の不調と体の状態を整えきれていない。前半シーズンの流れが良かったこと。こうしたトレーニングができれば走れるのではないか?という仮説があること。それが試せないのがもどかしい。どこまで戻していけるかは暗中模索である。

近況はこんな感じだが、タイトルの通り新しいチャレンジが出来そうである。


バヌアツ人スプリンター来たる。

 突然ながら、今週末からバヌアツ人のスプリンターがチームの練習に加わることになった。急な国際化に少々の戸惑いはある。

 バヌアツという国を聞いたことはあるだろうか?フィジーやニューカレドニアなどの大洋州と呼ばれる地域にある。検索してみると透き通るビーチに囲まれ、バカンで訪れて見たい国である。(男子であれば、社会の地図帳で一度は目にしたことのあるエロマンガ島もこのバヌアツにある。)

 経緯としては、私がヘッドコーチとして関わる豊洲のかけっこクラブTRACで指導をしていたスタッフがバヌアツにJICA派遣されたことに始まる。期間中にコロナもあり、途中で派遣が中止になったりと色々苦労した再度赴き支援活動を行っている。これまで、シューズの寄付などもする程度の交流でしかなかったが、今回は彼の教え子が日本で2ヶ月の短期留学をすることになった。
 11月にある試合に向けて、日本の文化を学びながら、トレーニングを行い、パフォーマンスアップを目指すことになる。

小さな夢

東京オリパラが開催される前にこんな記事を書いている。

====================================
2019年の年明けに10日間ほど、USA Jumpチームが拠点とする場所で合宿をさせてもらった。そこでは、国籍、言語、人種、障害の有無を越えて、世界と戦うアスリートが集結しトレーニングしていた。オリだろうがパラだろうが、アスリートとしてのパフォーマンスが評価され、リスペクトされる世界。心底かっこいいと思えた。そんな環境を日本でも作りたいと思った。 

陸上競技を共通言語にする。
====================================

オリパラを目の前に、”British Athletics”のフラッグを引き合いに出し、陸上競技の範囲を広げてくれたことを書いた。そして、結びにUS.Campで見た光景を実現したいと書き残している。 

現在、所属は異なれど一緒にトレーニングに励むのがT64クラス(下腿義足)の佐藤圭太選手。彼のコーチを務めているが、私以上に”障がい”を気にせずに(配慮せずに?)接しているチームメイトを見ると、我々の”陸上競技の範囲”は広がっているなと感じさせられる。

ここに上記のバヌアツ人スプリンターがトレーニングに加わる。生まれも、言語も、年齢も、背景も異なるメンバーが”陸上競技”という言語を通じて同じトラックを走るというのは何とも面白いなと思う。

 2019年サンディエゴにあるチュラビスタ・オリンピックセンターに訪れた時には、USの跳躍・混成代表チームのトレーニング拠点になっていた。国内選手だけでなく、国外の有力選手やジュニアチームがトレニーングキャンプ行っていた。さらに、義足、ブラインド、小人症などのパラリピアンたちも同じグラウンドでトレーニングをしていた。”陸上競技”を言語に様々な背景を持つ選手が高みを目指してトレーニングに励む姿は、向こうで学んだことの何よりも記憶に残っている。いつかこんな環境を作ってみたいなと思った。
 チュラビスタには遠く及ばないが、この景色に近づく光景を作れるのではないかとワクワクしている。

”陸上競技”を言語に

 そもそもなんでそんなことを思ったのだろうか?と改めて思い返してみたら1枚の写真を見つけた。2016年リオ五輪開催中のコパカーナビーチでの写真である。

 現地の陽気なカリオカっ子たちと写真に収まっている訳ではない。私の姿を見てほしい。明らかなランパン姿であるし、右サイドに写っている日本人もまたショートタイツである。我々は、リオは危ないと日本で報道がされていたが、そんなのお構いなしにビーチで砂浜ダッシュをしていたのである。
 
 そんな奇怪な行動をしている日本人を見て、現地のカリオカっ子たちが話かけてきた。ブラジルはポルトガル語が公用語であるが、「オブリガード(ありがとう)」以外のポルトガル語は一切わからない。片言の英語でコミュニケーションを図るもなかなか伝わらない。ジェスチャーを交えながら、「3・2・1・Go!」というと彼らが走り出した。衝撃だった。

  スポーツが言語になる瞬間だった。
 
 その後、カンボジア、ブータン、ラオス、ジンバブエと回ったが、どの国でも「3・2・1・Go!」で走り出した。スポーツに国境はない。スポーツ外交などと聞くことはあったが、まさにそれを体験した瞬間だった。このリオでの体験が自分にとって"陸上競技"を言語に。という原体験であり、様々な背景を乗りこてコミュニケーションが取れる方法ではないかなと思えた。


約2ヶ月間、スモールスケールではあるが思い描いた景色を日本で見たいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?