見出し画像

陸上競技の価値について考える

なぜか書かないと行けないという思いに駆り立てられたので、書いてみようと思う。(そんな思いになってから早2週間が経とうとしているが…)

かれこれ陸上競技に関連することを生業にして10年が経つ。社会人クラブの運営、東京と千葉を拠点とするスクールの運営を主に行なっている。自ら走ることもあれば、走ることを教えることも、教えてもらうこともある。様々な経験をどのようにカタチにしていくか。想いは変わらずとも立場や環境に応じて、どのように最大化をしていくかを考えるようになった。うまくいくことばかりではなく、うまくいかない事も多く頭を抱える日も少なくない。
陸上競技に関することを生業にしたときに、多くの人に心配された。大丈夫か?と。10年経つがなんとかなっているということが一つの答えでもあるし、今後これでどこまでいけるのか?というのはわからない。とはいえ、これは陸上競技を生業にしたから起きたことではなく、今度はどんな仕事でも起きえることだろう。

小学生の時には運動会のリレーの選手にもなれず、中学校でも部活中に砂場で落とし穴を作って遊んでばかりいた僕がこんなにもこの世界にどっぷり浸かるともは思いもしなかった。改めて、今感じている”陸上競技”の”魅力”や”価値”について考えてみたい。今、社会人で頑張っているアスリートの皆さんや春から社会人になる皆さんに読んでもらえたら嬉しいと思う。

あなたの"陸上競技に社会的価値”はあるのか?

突拍子もないことだが、考えたことはあるだろうか?
社会人になってからはこの言葉が頭の中で反芻されている。あなたはどうだろう?

僕の陸上競技のパフォーマンスに社会的価値を見出すことは難しいが、自分にとっては価値がある。

明日、僕が人生を懸けて挑んでいる記録を達成したとしても、粛々と世界は回るだろう。社会から見れば、僕が人生を懸けて挑戦していることはちっぽけにすぎない。いい大人が色々なことを犠牲にして挑むまでのことはない。しかし、”社会的価値”がなくても自分自身にとっては大きな価値がある。周りにとやかく言われて辞めるようなものではない。言ってしまえば、自己満足の世界の追求である。自己満足の世界の先に何があるのだろうか?
自分で決めたことを達成できた喜び、自分の成長を感じられる喜び、ライバルに勝利した喜び…それぞれにあると思うが、少しばかり誇らしい気持ちになるのは陸上競技を志した者なら共感できるのではないだろうか?この誰にも奪われぬ宝物のような時間と達成感を味わいたく取り組んでいる。
一方で、考えなければいけないことは、"僕にとっての宝物は、あなたにとって必ずしも宝物にはならない"ということだ。

社会的価値があるのならば、私の宝物はあなたにとっても価値のあるものになる、必ずしもそうではない。社会人になって感じるようになった感覚でもある。

自己満の世界の美学。

不可侵である自己満の世界は気持ちがいい。自分の許す限りのリソースを配分することができる。つまるところ、オタク文化や推し活も同じことだと思う。
自己満の世界に、社会的価値を求める必要はない。(当たり前であるが法的に許容される範囲に限る)
しかしながら、自己満の世界に浸り切るのは難しい。自己満の世界を作るためのリソースを手にしなければ、その世界は狭く限られたものになってしまう。特に、時間・お金・環境は自己満の世界を続けるための3大要素だと言える。このリソースを得るための活動、仕事やスポンサーだったりする。それは、あなたが持つ能力によって得られる報酬である。この能力が高ければ、評価をされば、自己満の世界を広げることができるだろう。また、自己満の世界を評価を求めるよりも、社会的な価値を高めることができればあなたの宝物の認識を作ることができるのではないかと思う。

この自己満の世界と社会的な価値の距離をきちんと理解できることが美学だと考えている。

対価を得るということ。

僕にとって価値があるものとみんなにとって価値があるものは違うこと。
僕にとって価値があるものと僕が対価を得られる能力は違うこと。

稀にこれが一致する人もいるが多くの場合は、そうではない。これを認識して行動ができるかどうかは大きな違いを生むと思う。簡単に言えば、やるべきことをやらずして自己主張ばかりする人が応援される対象に、周囲から受け入れられる対象になるのか?ということだ。
曲がりになりにもクラブの経営者として、スタッフに、選手に対価をお支払いさせてもらっている。その中で、もっと払ってあげたい能力を発揮する者もいれば、もう一踏ん張り欲しいという者もいる。自分が払ってもらう側だけだった時には、そこまで意識していなかったが、支払う側になった時には見え方は変わってくる。対価は能力・貢献度に応じて配分されるべきであると思う。

アスリートが「世界に挑戦したい」「普及をしたい」「盛り上げたい」ということを発言をよく目にする。同じ競技をしている者として、このアスリートがどんな世界を見せてくれるのか?将来の競技のことを考えてくれているんだ!この距離感で選手と触れ合えるのかと嬉しくなり心が温まる。
一方で、対価を支払う側からするとそれが対価を得ることにどう繋がるのか?が見えにくいな感じることもある。あなたの目標や夢という宝物が、僕にとっての宝物になっていないからである。

あなたのストーリーを知りたい。

世界に挑戦したい
普及したい
自分の限界に挑みたい

どれも本心なのだと思う。
ただこれがどのように社会的価値となり、対価を得る能力に繋がっていくのか?それを説明できるのだろうか?
世界記録を出しても、金メダルを取ってもこの説明ができなければ、”自己満の世界”と言わざる得ないのでだろうか。
僕は、大学、社会人とこの世界に人生をかけて戦ってきた選手、コーチ、トレーナー、スタッフの姿勢を間近で見せて頂く機会が幸いなことにたくさんあった。それが、とても社会的価値がないこととは思えない。しかし、なぜそこを目指すのか?なぜそれを達成したいのか?達成した暁には、どんな景色がみえるのか?そのストーリーを知りたい。ストーリーは価値の共感を生み、”あなたにとっての宝物になる”と思う。
これはパフォーマンスに優れた人に限った話ではない。社会人アスリートであれば、家族や職場などの理解がなくては試合どころか練習もままならない。あなたの宝物のストーリーが1mmでも周りに伝わればいいなと思う。

陸上競技は翻訳機

偉そうに書いてはみたが、僕にとっての陸上競技とは何だろうか?自己満の世界の先にあるストーリーは何だろうか?

色々と考えてみたが、陸上競技は僕に取って”翻訳機”みたいなものかなと思った。

・競技を深く知るために、学び方を知り学び続けることを知った。
・数字は努力の方向性を押しはかる物差しとなった。
・陸競技を通じて途上国のスポーツの現状を知り、その国の歴史を知った。
・走ることを通じて、障がいと公平性について深く考えた。
・スポーツは言語になる体験ができた。

この翻訳機のおかげで随分自分の世界が広がったように思う。学校で習ったことや勉強したことはあったかもしれないが、陸上競技というフィルターを通すことでより理解しやすいものに翻訳され届けてくれた。僕にとって、陸上競技は世界を広げてくれた翻訳機である。
僕の自己満の世界は、この翻訳機の性能と精度を高めてくれるのに一役買っているかもしれない。指導力の向上だったり、競技環境の整備に繋がり、周り回って僕の仕事=社会的価値に貢献することへ繋がったらと思う。

あなたの陸上競技はどんなストーリーを描いていますか?
あなたの陸上競技にどんな価値を感じていますか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?