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”偏見”を自認する。

 僕には偏見がある。
今回のインドの旅をはじめ、自問し認識する瞬間が時々訪れる。言葉だけが先行するとネガティブだが、これを認識することで自身の行動や思考を省みることができるのではないかと考えている。インドの話を掘り下げていくために、このタイトルにした。

 インドのスポーツ文化については、こちらにまとめているのでご一読を頂きたい。


スタジアムの外の世界

 今回の訪れたカリンガスタジアムは大きな通りに面している。その道を渡るとオリッサで暮らす人々の日常があった。それは、スポーツで人生を変えたいと強く思う選手たちのリアルの一端を知ることになった。

赤枠のところが今回見に行った場所

 道路沿いの露店の脇の道を奥に進むと、鉄格子の柵に囲まれた家から窓とドアがない家が散見されるようになる。舗装された道から、舗装がまばらになり、土と岩だけの道になる。通りから100mも進んでいないが、道幅が大人が行き違えるほどに狭くなる。下水のインフラが整備されていないためか、生活排水が道に漏れ出し異臭が鼻につく。

①の奥に見える車が大通り。番号ごとに奥まで進むと舗装がされていない。

 さらに奥に進むと裸足で駆け回る子供達に出会い、行き止まりの道であったが家の通路を通してもらい別の通りへ。家には屋根のないくカーテンだけのシャワールームがあった。

屋根がなくカーテンだけのシャワールーム

 通りに干している洗濯物を避けながら奥に進むと団欒しているお母さんたちが笑顔で出迎えてくれた。道すがら覗いた家には電気はなく、ベットも大きなものが一つ。一体何人で使っているのだろうか?屋根があり壁があり、この土地に住めているだけではもまだマシな方であると聞いた。日本では考えられないような環境だけど、彼らの屈託のない笑顔と話しかけてくる姿は忘れられない。

奥に進むと家の中から出てきてくれて歓迎ムード
屋根のない家の階段・団欒する人たち
家から続々と広場に

 帰りがけには、目と鼻に外傷をおった母親にあった。先天性のものなのか、インドの文化である男尊女卑の文化からくるものかわからないけども、身近にそういう問題があるのかと脳裏に浮かんだ。
 スタジアムのホステルも決して恵まれた環境とはい言えないなと思っていたが、スタジアムの向かいには自分の想像を超えた日常があった。僅かな時間でもスポーツに取り組めることに貴重な機会を得たことに選手が感謝している意味がわかった。

身近な問題であると感じたが屈託のない笑顔の母親

心の障壁

 生活環境だけでなく、インドの伝統的な文化を感じる場面があった。歴史の授業でも学んだ”カースト制”である。身分を4段階(厳密には5つに区分)に分け、その身分内で居住地、仕事、結婚相手などが決まってきたというインドの歴史的な文化である。憲法上は70年前に廃止されてはいるものの、人々の心の中にはまだ残っていた。
 それは練習中にしばしば感じた。一つは、コミュニケーションを取ろうと話しかけるが、違うカーストの人ということでかなり距離を取られていた。大矢に聞くところでも最初は一緒に食事をとってくれず、時間をずらして食べていたようだ。何より衝撃だったのは、違うチームの選手(カーストも違う)が練習に混ざった時だ。今回は我々は大矢の指導している選手たちをメインにコーチングをしていたのだが、合流してきた選手がコーチたちに質問をしてくるとその話が終わるまで一歩下がったところで話が終わるのを待っていた。彼らの心の奥底まで染み付いている文化なのだと認識した。しかし、スポーツではカーストに関係なく競技しなくてはいけない。この骨の髄までプログラムされているにようなカーストに逆らい、競技しなくてはいけない。純粋に競技だけではなく心の壁にも立ち向う必要がある。
 
 大矢のチームには三段跳で2回目の全国大会を決めた選手(18s歳の選手)がいた。彼女は農村の出身のカーストであり、前回の全国大会で初めて飛行機に乗ったそうだ。想像以上に綺麗なホテル、食事に驚き、体調を崩してしまったとのことだ。(豪華すぎて体調を崩すことがあるなんて嘘のような本当の話)
 彼女の実家は都市部から離れており、最寄りのバス停まで2時間かかるそうだ。家には電気はなく、もちろんエアコンもない。シャワーも屋外であり、増築した部分はお金が足りずに工事が止まっているそうだ。(ちなみに祖父母の代から増築は続いており、未だ完成を迎えていない。)屋根がないため、雨が降ると家は浸水するらしい。そんな中、スポーツが好きなお父さんの影響もあり本人は陸上に取り組み始めた。彼女が全国大会で優勝すると親の年収を遥かに超える賞金をもらえ、実家の増築は進み環境も良くなる。親のプレッシャーがあるのか、本人が家族の気持ちを汲んでいるのか真相は定かではないが、賞金を得ることで人生が変わっていくことは間違いなく、人生を切り開く手段でもある。そういう意味では、カーストを超えて戦えるものがスポーツでもある。

リビングと建設途中の家
寝室・”リアル”露天風呂・キッチン

  私自身、ジュニア年代を見ることが多いため、目先の勝利ではなく将来を見据えたコーチングと体づくりを信条にしている。18歳の将来性がある選手を目の前にしたら、大学、シニアで戦うことを前提に指導をすると思う。

三段跳のPretty選手

 しかしながら、人生を変える戦い控えている選手を目の前にして、自分の理念を突き通すことができるだろうか。また、こういったことを理由にドーピング問題との結び付きも根深いものになっている。

 今回の指導した大矢のチームには14歳のサントスという少年がいた。彼は線はまだまだ細いが、とても器用で指導した動きを体現することが巧かった。また、学校生活も楽しんでおり、学校行事にも楽しそうに参加していた。天真爛漫な彼を見て私たちはその成長を楽しみにしていた。しかし、彼が昨日チームを抜けることになったと連絡をもらった。昨年に、父親を亡くし、母親が歩けなくなってしまい実家に戻り看病をするためとのことだ。ホステルも学校もやめて実家に戻るということだ。競技成績によってふるいにかけられて離れるのではなく、どうしようもない理由で離れることになってしまった。家族の生計を支えるために、14歳にして職を探し稼がないといけない。スポーツのキャリアで職を探すことを夢見ていた彼にとって、あまりにも過酷な現実である。同時に何もできない無力さを痛烈に感じさせられる。

偏見がない。とは言えない。

 インドの日常生活とスポーツを取り巻く環境について、皆さんはどう感じただろうか?

 私は選手の環境、背景を知り「自分は恵まれているな。自由に選べる環境にある。」という優位な立場にあるという感情が芽生えた。自分で選択できる権利の範囲を比較し、その範囲が狭いことを憂いてしまった。自分の価値観で相手のことを格付けしてしまっている。これはインディアアスリートだけでなく、様々な瞬間に頭を過る。好きな時に好きなように走れないこと、自分を超える環境・背景が理由になってしまうことそれらに対峙した時に「偏見」が生まれる。なんだか「かわいそう」「ああではなくてよかった」という自分の器の小ささを嫌というほど見せてくる。しかし、この感情を持たないこともまた違うと思う。持たないように、意識しないようにすればするほどに、より自分自身とそのことに大きな隔たりが生まれるような気がしてならない。
 だからこそ、自分自身には「偏見がある」ということを自認することが大事なのではないかと考えるようになった。なぜ偏見が生まれてしまうのか?より理解するために何ができるか?を考えるようになった。ユニバーサルかけっこチャレンジも、途上国支援も全て自分自身の中にある違和感から起きたアクションである。
 一方で、陸上競技にこんなにも縛られている私を憂う人もいるだろう。遠征・合宿に行ってもホテルと競技場の往復で終わることも少なくない。土日も朝から晩まで指導対象を変えながら、競技場を駆け回っている。だが、私自身はかわいそうではなく、自らの意思で選択している。
 サントスの話ではないが、自分自身に選択権があるというのは本当に恵まれていることなのだと思う。彼らを見ているとその日暮らしのマインドだなと感じることも多々あるが、明日何が起きるかわからない。明日の今ある選択肢を手放すこともあると思うと必ずしも今日を生きることが悪いようにも思えない。
 立場が変われば見える景色も異なるのは当然のことだ。立場の違う景色を少しでも理解できるように、自身の世界を広げて行きたいと思う。

 陸上競技という翻訳機を使って。

【追記】

 なぜこのような思いに至ったのか。以前、子供の合宿で紹介した動画の意味を改めて噛み締めた。

それでも競争しなくちゃいけない。

学ばなかった者は馬鹿だ。

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