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掌編小説 同じ景色

 実は最近囲碁を始めた普通のサラリーマンである。きっかけは亡きお祖父ちゃんの遺品を整理していたら愛用していた碁盤と碁石が見つかり譲られたからである。使い込まれて年季は入っているものの本榧の特注品で相当にいいものだそうだ。そんな良いものを部屋のインテリアにしておくのはもったいない気がして前々から興味があった碁を始めてみることにしたのだ。

 最初は本を買ってそれに習って定石を学ぼうとしたのだが、碁盤は何といっても広くまたルールは単純なれど汲めども尽きぬ奥の深さ故早晩独力では限界があることに気付かされ囲碁教室に通うことにしたのだった。

 週一土曜日地区の市民館で開催される囲碁教室に通うことにした。さすがに碁に興味をもつのは年配の人が多く実は一人浮き気味だったのだが、中年女性たちは年若い男に喜び、皆和気あいあいと楽しく碁の勉強に励んでいた。

 先生による講義が終わると対戦相手をくじ引きで決めていよいよ実践の時間である。今日の相手はと実が着席するとそこにはこのクラス1の実力者伊藤さんが座っていた。「お手柔らかにお願いします」「何の何の若い人は覚えもいいからね。私なんぞはすぐに抜かされてしまいますよ」伊藤さんは見たところ60前半ぐらいの初老の男性である。こんなに上手い人がなぜこんな初心者が通うような教室に通っているのだろうと思えてならないのだけど、どんな世界にもそういう人は必ずいるものである。

 「お願いします」「お願いします」あまりに力の差がありすぎるので石を4つ置くことにした。先番は黒の私である。左上隅三三。伊藤さんが「では私はツケ」ではケイマに。順調な滑り出しである。そう。もの凄く順調なのだ。途中私が知らず知らずのうちにウッテガエシを繰り出し石を大量に取るなどのラッキーにも見舞われた。これは本当にラッキーだったのだ。取ったというより取らされたという感覚だったのだから。結局私が負けたのだが上手い人と打つということはこういうことなのかと何かのマジックにでもかかったように頭の中がぼうっとしてしまった。

 「また次もお願いします」と伊藤さんに言ったら、「はい」と優しく頷かれた。囲碁の腕を磨こう。そして伊藤さんと同じ景色が見れるようになりたい。実は初めて囲碁に対して熱いものを感じたのだった。


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