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掌編小説 三拍子に思いを込めて

 近所の小夜子お姉さんはいつもすらっとしたジーンズ姿で美しい黒髪をなびかせて僕の小さな胸をドキドキさせる。彼女はこの春から新社会人だそうだ。

 僕は今年から中学1年生。取り立てて可もなく不可もない普通の中学生である。一つ特技があるとすればピアノが弾けることぐらいだろうか。これは母さんが半ば無理矢理習わせた教育の産物である。小学2年のときから始めたからかれこれ5年間は続けていることになる。5年も続けていれば特段才能はなくても何となくは弾けるようになるものである。

 週一レッスンの土曜日。教本を入れた稽古バッグを下げ家を出ると偶然小夜子お姉さんに出くわした。「こんにちは」お姉さんはにこやかに話しかけてきた。「とこかへおでかけ?」「ピアノのレッスンに行くところです」僕はやっとのことで返事をする。「信夫くんピアノ続けてたんだね」「はい」「私は楽器はおろか楽譜を読むのも怪しいぐらいだから正直羨ましいよ」「そうなんですね。お姉さんは何か好きな曲ありますか?」「うーん、音楽、特にクラシックには疎いからなぁ。強いて言えばショパンの『子犬のワルツ』かな」「僕それ結構得意です」僕は敢えて冷静を装ってそう応えた。「そうなんだぁ。どこかで聞けたらいいのにね」

 そうこうするうちにレッスンの時間が迫ってきたのでお姉さんとはそこでお別れとなった。それにしてもお姉さんと話してる間中心臓が鳴り止まなくて僕はまるで熱に浮かされた人のようだった。お姉さんを満足させる演奏をする前に、優雅なワルツを弾く前に、僕の中の子犬を落ち着かせないとね。

 僕はその日からより一層レッスンに熱を入れ始めたのだった。

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