見出し画像

#52|13 2020年9月4日 政治的食事法

 最近野菜を全然食べていないな、と思いながら朝食代わりのピスタチオの殻を剥く。たまに臆病なやつがいるが、無理やり引きずり出しても大抵は塩味がついていないしあまりいい味がしないことが多いのでそのまま逃がすことにしている。3日程かけていた袋を空けてから銀行へ行くことにした。N大学と提携している窓口は1ヵ所しかないので口座を開設したのと同じ所へ向かう。入り口の外に2、3人並んでいた。かなり小さい事務所なのでそういうこともあるか、と待っていたが20分ほど待っても全く列が動かない。後ろにもさらに3人ほど列が伸びた。すると1人の銀行員が出てきて目の前に並んでいた女性と何事か話している。銀行員の方は笑顔だが、女性はかなり厳しい表情を浮かべている。その後また銀行員は中に戻っていった。女性に話を聞くと、本来は窓口が2つあり、担当者は3人いるが、昼休憩に2人行ってしまったためにどうしようもないんだと言う。スペインらしいな、と思いながらももう15分ほど待ったが、何をやっているのかわからないが全く列は動かなかった。しびれを切らして近くの別の事務所へ行ったが、同じ窓口に行かないと対応はできないと言われた。戻ってみると列はなくなっており、あっさりと中に入れた。文句を言いたい気持ちも山々だったが、何の解決にもならないし時間の無駄なのでやめた。結果的にカードを届ける封筒は事務所に置いてあり、前に言われたメールを送るつもりはなかったという。それを聞いてさらに色々と言いたいことはあったが、帰ってF1を見ることにした。
 F1を見終わり、授業の資料に目を通しているとMからのお誘いが来た。
「どこかに行かない?」
「いいけど何をしたいの?」
「同居人は隣の田舎町のイベントに行くって言ってるけど私は行きたくないから。特にまだ何も決めてないけど。」
「それならこの間言ってたポキ丼はどう?」
「うーん、そうだね。」
「Mの家からは少し遠いけどヤマグチ公園の近くによさそうなお店があるよ。」
「いま、ネットで何かイベントがやってないか探してたんだけど今日は何もないみたい。」
「そうみたいだね。じゃ、他に何かアイディアある?ポキ丼以外だったらバルに行くくらいしか思いつかないけど。」
「ポキ丼のお店は大学に近いから授業が始まってから行こうよ。」
「わかった。じゃ、今日はどうする?」
「バルかな。」
「うん、いいよ。」
「じゃ、30分後に待ち合わせね。」
最早Mは待ち合わせ場所を言わなかった。僕はMの家を知っているし、Mの家に近いカスティーヨ広場の周りにはバルがたくさんあるからだ。
 広場のベンチに座って待っていると、いつもの甲高いが、子供っぽさは全くないどこか優しさを感じさせる声でMが歩いてきた。マスクをしていても笑顔なのがよくわかる。今日もどこに行くのかは決めてなかったが、とにかく美味しいものが食べたいと言ってすぐ近くのバルに入った。「人が多いからきっと美味しいよ。」そう言って近くにいたウェイターに2人だ、と伝えて、カウンターの向かいにある2人用のテーブル席へ案内された。スペインでは日本と違って注文などをする時には手を挙げたり遠くから声を掛けたりはしない。目で合図するのだ。席に着くとすぐに白髪交じりの小柄なウェイターがメニューを持ってきて軽やかに「本日のおすすめ」を説明した。とりあえず飲み物だけ先に注文することにして、Mはベルモットを、僕は赤ワインを注文した。
 出てきたピンチョスを見て2人で目を見合わせた。いままでに見たピンチョスの中でも群を抜いて奇抜な見た目の上に、材料と調理方法に最上級の仕事がされているのが一目でわかった。頭の中には”エル・ブリ”のドキュメンタリーが浮かんだが、これ以上我慢はできなかった。材料や調理方法を簡単に説明されたが、かなり早いスペイン語だったのでところどころしかわからなかったが、海藻の素揚げやしめじの煮物など、どこか日本料理にも通ずる材料と泡状に仕立てられたソースなど先鋭的な見た目だった。言われた通り手で鷲掴みにしてかぶりつく。海の塩気と山の濃厚さが相まって唸るような旨さだった。そのあともいくつかピンチョスを頼んだが、どれも素晴らしかった。その度にウェイターが丁寧に説明してくれたが、全く嫌みのない話し方で冗談交じりに話す姿はどこか矛盾しているようにも見えるがこれを矛盾ととらえるのは日本人の性かもしれない。少しソースを残していた皿を下げてもらおうとしたところ、ウェイターが「このピンチョスを食べるときはきちんと”untar”しないといけないよ。そちらのお嬢さんはいい”政治家”になれるね。」と楽しそうに言って、皿を置いて行った。よくわからなかったのでMに聞くと”untar”はスペイン語で”拭う”と”賄賂”という意味があると教えてくれた。そして2人でじゃがいもから作ってあるソースをフォークで綺麗に食べた。


 バルを出るとMがジェラートを食べたいと言ったが、どこの店も閉まっていたのでもう1軒バルへ行くことにした。Mが1度行ったことのある店で、2度は行く必要のない店だが、経験だから見てみるといい、と連れていかれた。先ほどのバルのある区画と隣り合わせだが、かなり客層の違う区画にその店はあった。Mが言うには、さっきの店の辺りは比較的高級で年齢層も比較的上で、いわゆる”伝統的”な考え方を持つ客が多く、この辺りは独立派や比較的過激な思想を持つ客が多いので治安も悪いらしい。
 店の中ではおそらく2000年代の音楽が流れ、ミュージシャンやアルコールのポスターやステッカーが所狭しと貼ってあった。ティント・デ・ベラーノと自家製モヒートを飲んだ。Mはクバ・リブレを2杯飲んだ。Mは店内の音楽に合わせて踊りだしたが、僕はそういうのが苦手なので見ているだけでよかったが、Mが日本の踊りはどんなのか、としつこく聞いてい来るので、この音楽とは全く合わない、と説得しようとしたが、どうしてもというので阿波踊りのような動きを少しだけ見せると、Mはそれを真似しつつアレンジを加えて踊っていた。何とかっていうショットを2人で2杯ずつ飲んで、閉店時間になったので帰ることにした。
 まだ何か飲み足りないのかわからなかったが、Mは少し遠回りをしたいと言って歩き出した。今まで2人ともいったことのない場所を歩いた。ひと気が全くなく、真っ直ぐの伸びた道のかなり先に赤いTシャツを着ている人が見えたが、こんな時間に外をうろついているなんてまともな人じゃない、とMは軽蔑の眼差しを向けていた。大聖堂がある街の”切れ目”のようなところにたどり着いた。街灯はあったが、”壁”の上から見下ろすと暗闇が広がっていた。1本の細い道路が伸びていくのが見えた。空を見上げて「月が綺麗だ」なんて思ってみたりした。口に出して説明しようかとも思ったが止めた。階段を降りようとしたあたりでMがトイレに行きたいからちょっと先に行って待ってて欲しいというので見える距離ではあるが少し離れたところで待っていた。少ししてMがこちらに向かって歩いているのが見えたが、そこを通りかかった人にたばこを1本くれないか、と言ってそのままその見知らぬ男2人と話していた。この時間に面倒だな、と思っているとMに呼ばれたので、やれやれ、と重い足取りで近づいて行った。かなり痩せて身長の高い2人組の男で、1人はバイクのヘルメットを手に持っていた。10分ほど政治の話をしてからどこかでビールでも飲まないか、とその2人が誘ってきてMも飲みたいと言うので仕方なくついて行った。飲食店は政府からの指示で深夜1時以降は閉店しているはずだが、連れていかれたケバブ屋はもう肉も回っていなかったが、カウンターの下から缶ビールを6本取り出して手渡していた。それを男の1人が受け取り、近くの小さな広場でベンチに座って飲んだ。mahouというスペインのビールで苦みがある嫌いな銘柄だった。周りにも大学生くらいの7、8人の集団がいくつかいた。男たちは2人ともモロッコ出身で塗装の仕事をしている28歳だと話していた。トラップ音楽を掛けながら3人はたばこを吸いながらフェイクニュースがどうのと話していた。興味もなければ彼らのスペイン語のペースについていけなかったので傍観していた。何度も日本人だと言ったが、たまに中国語ではどうだとか、中国の会社はどうだ、などと話を振ってきた。Mはだいぶ酔っているようで、バチャータの音楽をかけて踊りだした。背の高い方の男が一緒に踊りだした。Mも楽しそうに笑顔で踊って、気をよくした男がMの尻を叩くと、それはだめだ、とMは怒っていた。4時を過ぎたころ警察の車が来て早く帰れと言ってきた。他のグループはすぐに散っていったが、男2人は職務質問のようなものを受けていた。Mはそれを見て僕の耳元で、彼らはモロッコ人で見た目が他のひとたちとは違うからこうなるんだ、人種差別だ、と囁いた。ようやく帰れる、と安堵しながら男2人と別れてMの家に向かった。別れ際に男2人は明日の夜も一緒に飲もうと言って、Mも僕も了承したが、別れてすぐにMは「あんな変な人たちと一緒にいたらだめだよ。気を付けて。」とはっきりと言った。さっきまではあんなに楽しそうだったのに、まるで女優だな、と言うと唇を突き出して目を見開いておどけた表情をしていた。
 しゃっくりの止まらないMの家に着いて水を1杯ゆっくり飲んで、散らかったベッドをある程度片づけるのを手伝い、長めのハグを2回した。このご時世だからMはいつもハグを遠慮していると言っていたことを思い出して、仲良くなれて良かったことと、大分Mが酔っていることを再確認した。「吐く前に帰ってほしいけど、1人で帰れる?」と聞いてきたので、「もう立派な大人だから大丈夫だ」と答えた。最後にもう一度ハグをした。

(9/6 0:52 パンプローナ自室にて執筆)


現在、海外の大学院に通っています。是非、よろしくお願いします。