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退屈のすゝめ

今更の話になってしまうし書いたところで何がどうなるというわけではないのだけれど、私は26になる前に、さらに言えば2年前に本当は死んでいる予定であったはずなのです。当方、言葉通りの死に損ないでありまして。


書きたい事はもうあらかた此処に書いてきてしまった。ありがたくも奇妙な事にnoteを書き始めた3年前から読んでくれ続けて私の文章を好きだと言ってくれる人もいて、これまでに書いたいくつかの文章は私の私なりの実りのない結実と呼んで差し支えないと思っている。
たとえば今私が死んだとして、2、3年は残るだろう。


緩やかな満たされなさ(不満と呼べる程成熟した感情ではない)と穏やかな不安と途方もない退屈で構成される日々は程々に居心地が良いもので、本当に気分が参った時以外はぼんやりと「いつ死んでも構わないな」と思っている。

そしてやはり、大事にしている人が何人かいるが、大切にしている人はあまり居ないので残していく意思は特段気にするほどでもなく、取り立てて価値が見出せる物でもないのです。

自らを大切にする。という事が出来ないまま26年間それなりの傷を背負って、もしくは背負わせて生きてきたのだけれど俺が今まで書いたいくつかの何かは読んでくれたあなた方に一筋でも何か残せているでしょうか?残せていれば幸いに思うのです。

俺はこうやって文章を書いたり短歌を詠んだりしている時、ひとつだけ気にしている事があって、それは「この言葉は引力を持っているかどうか」で

引力というのは私が便宜的に適当だなと思って呼んでいるだけなのだけれど、要するに「書いている時の私の感情と同じベクトルの感情に引っ張る事が出来ているか」という事だ。要せてないな。

例えば失恋の短歌を詠んだ時は読者におおよそ悲しいや切ないに大別可能な感情を持たせる事が出来るか。とかそういうような感じである。上手く説明が出来ない(だから多分まだ下手)が、なんとなく理解してもらえただろうか。

とにかく私は私のなんらかによってあなた方に快、不快になってほしいのだ。あなた方の1コンテンツとして消費されたいのだ。そうして初めて自己肯定感があまりにも低い俺は自分の存在意義を確固たる物としていずれ死にたいのだ。死後誰かに語られたいのだ。100年後に残したいわけではなく(虎になってしまうので)5年後とかに思い返してほしいのだ。地獄に落ちるつもりなので。


私の言葉が貴方のこれからに少しでも関われますように。


それでは。

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