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私たちがしていく実践は、神、愛、光、喜び、平安、静けさにフォーカスしていくというものではない


コースという霊性の道の特徴的なところ

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいく上で、私たちが知っておかなければならないのは、コースは非二元の霊性の道ではありますが、愛や真理について学んでいくようなスピリチュアリティではないということです。

そのことについては、コースのテキストの序文ではっきりと述べられています。

このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。それは教えることのできる範囲を超えているからである。しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは目指している。(T-In.1:6-7)

奇跡講座/中央アート出版社

それはどういうことかというなら、私たちがしていく実践は、いわゆる、神、愛、光、喜び、平安、静けさにフォーカスしていくというものではないということです。

もちろん、愛や喜びや平安に触れるような体験もしていきますが、そういうことを重要視していくのではないということです。

むしろ、私たちがしていかなければならない重要なことは、愛や平安を妨げている障壁を見つけ出していくことなのだということです。

それというのも、その障壁は認識されることによってのみ取り消されるわけで、それこそがコースの実践で私たちに求められていることなのです。

それゆえ、コースは「undiong(取り消し)」「unlearning(白紙に戻す)」の霊性の道と呼ばれているということです。

そして、それこそが他のスピリチュアリティ(霊性の道)とはちがった特徴的なところだといえましょう。


愛を阻む障壁を見つけ出す

私たちがコースの実践をしていくとき、

いかに自分は神の愛を恐れているか、
いかに自分は平安を避けているか、
いかにイエス、聖霊を拒否しているか、

そして、

いかに自分は恐れを握りしめていたいことか、
いかに自分は自我を手放そうとはしないか、
いかに自分は自我の声を聞き続けているか、

そういうことが自分の中にはっきりと自覚/認識されていきます。

むしろ、コースのイエスはそのことをもっと自覚するようにと促しています。

神を代弁する声が自分の中にあると知ることができるというのに、なぜあなたは、果てしなく続く狂気の呼びかけが自分に向かって発せられていると考え、それらに耳を傾けなければならないのだろうか。(T-5.Ⅶ.3:1)

奇跡講座/中央アート出版社

たしかに、コースの教えていることが理解されていくにしたがって、自分たちが何をしているのかがますます自覚/認識されるようになっていきます。

つまりは、毎瞬毎瞬、狂気の声、自我の声に耳を傾け、その声を聞き続けていることが自覚/認識されていくということです。

そのことを自覚/認識していくとき、「愛の現存を見えなくしている障壁」「愛を阻む障壁」という言葉の意味がようやく理解されるわけです。

そう、そのこと自覚/認識していくこと、しかも、咎めずに見ていくことが、コースの実践で私たちがしていくことなのです。

むしろ、そのことを自覚/認識せずに、私たちはどうやって自我の狂気の声から自由になることなどできるというのでしょう。

コースの実践で私たちに求められているのは、「愛を阻む障壁」を見つけ出していくことだということです。

なぜなら、それは見つけ出されて認識されてこそ、訂正(取り消し)が可能となるのですから。

あなたの為すべきことは愛を探し求めることではない。あなたが自分自身の中に築き上げてきた愛を阻む障壁のすべてを探して、見つけ出すことである。真理であるものを探し求める必要はないが、誤まっているものを探し出すことは確かに必要である。”(T-16.IV.6:1‐2)

奇跡講座/中央アート出版社

そいういうことでいえば、コースはまさに訂正、取り消しのスピリチュアリティ(霊性の道)であるといえましょう。

そして、その訂正のことを「奇跡」と呼んでいるわけです。

奇跡とは訂正である。それは創造することはせず、実際、何の変化ももたらさない。奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。(W-pII.13.1:1-3)

奇跡講座/中央アート出版社

何度も申しますが、このコースは、「愛の現存を見えなくしている障壁」「愛を阻む障壁」を見つけ出して、取り消していく、そういう霊性の道であるということです。

コースは愛や神や真理を見い出していくような霊性の道ではないのだということです。

そうではなく、それを阻んでいる障壁のほうに気づいていく、自覚していく、認識していく、直視していく、そういう霊性の道であるということです。

コースは本来そういうことを教えているわけですが、私たちはなかなかコースがそういう教えであるとは理解しようとはしません。

だからこそ、コースの道を歩んでいこうとするなら、

コースという霊性の道はどのようなものなのか?

コースの教えの理論的なところ、つまり、コース形而上学をしかり学んでいくことが必要不可欠だといえるわけです。

コース形而上学をしっかり理解していくことは、コースの道を歩んでいくうえでとても重要であるどころか、それなしにはあり得ないのだということを肝に銘じておきましょう。


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