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本気でコースを学ぶ気があるのなら、覚悟してコースの教えを学んでいきましょう


自己の本質に関わること

本来、ワンネス(一体性)であるはずの私たちが、なぜゆえ、このようにして個別の存在としてこの世界に存在しているのでしょう?

本来、神の子(強さ、豊かさ、完全無欠)である私たちが、なぜゆえ、このようにして脆弱で卑小で不完全の存在、つまり、人間としてここに(この世界)に居るのでしょう?

この世界が幻想ならば、なぜ、今こうして世界は存在しているのでしょう?

この宇宙の時間、空間はどこから、どのようにしてはじまったのでしょう?

自分はどこからやって来て、どこへ向かうのでしょう?

自分とは何者なのでしょう?

上記のような、自己の本質に関わる根本的命題に対して、その答えを与えてくれているのがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)だといえましょう。

そこには、答えが与えられています。

そこには、その答えを体現していくための霊性の道が示されています。

それを、学ぶのか?学ばないのか?
その道を、歩むのか?歩まないのか?

私たちに、その選択肢は与えられています。

ただし、その道を歩もうとする者はごく僅かだといえます。

それでも、本当に少ないながらも、この私もそうであるように、この道を歩もうとする人たちがいるのはたしかです。


コースを学ぶのであるなら覚悟を持って学んでいきましょう

いざコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学ぼうとしても、実際のところ、それがあまりにも難解すぎて、学ぶこともなかなか難しいというのが誰もが経験することだといえるでしょう。

というのも、コースはまったく馴染みのない思考体系から書かれているということもありますし、さらには、私たちにはとうてい受け入れ難い内容ということもあるので難解だと感じてしまうのは仕方のないことだといえます。

そして、そうであるがゆえに、コースがいとも簡単に歪曲され、曲解されて学ばれてしまうことが起きてしまうのもやむを得ないといえます。

実際に、私自身も学びはじめの数年間はコースを曲解して(コースを歪曲して学んで)いた時期があり、そのことに気づくまでに数年のまわり道をした経験があります。

それでも私の場合は、コースの教えを歪曲して学んでいたことに気づいて、そして数年で正しいコースの歩みに戻ることができたという点でいえば、とてもラッキーだったと思います。(本当はラッキーも、アンラッキーもないのですが。)

というのも、コースを歪曲して学んでいることに気づくまでに何年も何十年もまわり道をすることもあり得ますし、それどころか、コースの教えを歪曲して学んでいることにすら気づくことがないまま、コース学習の生涯を終えることだってあり得るわけです。

もしそうだとしたなら、せっかくのコース学習も無意味なものになってしまうだけでなく、人生そのものをまったく無益な時間として浪費してしまうことになりかねません。

コースの中にも、この人生を「無益な旅」や「無駄にされている」という言葉で表現している箇所があります。

あなたがそれを自分自身の最後の無益な旅として受け入れることができるなら、私の復活にも自由に加わることができる。そうするまで、あなたの人生はまったく無駄にされている。(T-4.In.3:3-4)

奇跡講座/中央アート出版社

この人生を、無駄な時間の旅としてしまうのか?
それとも、
この人生を、時間の終わりへと向かう旅とするのか?

それが、私たちに問われているということです。

たとえ形態上ではコースをまじめに学んでいるとしても、前者のケースでコースを学んでいるつもりになっているだけということはよくあることです。

だからこそ、

コースを学ぶその目的は何なのか?

をしっかり明確にしていくことは大事だといえます。

もし、その目的がちがったもの、あるいは、曖昧ものであるとしたなら、コースの学びも実践もまったくちがったものになってしまうことは避けられないといえましょう。

つまり、コースの教えを歪曲化、矮小化してしまうことになるということです。

そうなってしまうなら、もはやコースがコースではなくなってしまうわけで、だとしたなら、そもそもがコースでなくても他の霊性の道でもいいわけです。

コースの教えを本当に理解していきたいのなら、何のためにコースを学ぶのか?その目的をはっきりとさせておくことが大事です。

そうでないならば、いとも簡単にコースの教えを歪曲したり、コースの教えから逸脱したりするからです。

つまりそれは、コースの教えが難解だからではないのだということです。

私たちの無意識の部分が、コースという霊性の道を歩んでいくことに抵抗するからなのです。

そういうことについて教えてくれているのがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)だといえます。

本当にコースが教えていることを理解するようになるならば、コースはそう生半可に学んでいけるようなものではないということを理解するでしょう。

中途半端な気軽な気持ちではけっしてコースを学んでいくことはできないことが分かってくることでしょう。

そういうことから言っても、コースを通して本気で目覚めていこうと思っているのであるのなら、コースという霊性の道はどういう教えなのか?をしっかりとちゃんと理解していくことに覚悟を持って学んでいく必要があるといえましょう。


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