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「赦しの視点」とは、つまりそれは、「悟りの視点」である


自分が「悟り」に到達するのではない

非二元の霊性の道を歩んでいく上で私たちがよく勘違いをしてしまうのは、自分が目覚めるのだと思ってしまうということです。

自分と思っている自分が「悟り」に到達するのだと思ってしまうわけです。

「目覚め」「悟り」とは、まったくそういうものではないということを知っておくとよいでしょう。

「目覚め」「悟り」とは、むしろ、その自分こそが非実在なのだと受け入れたそこにあるものだといえましょう。

それは、すでにそうであることを思い出すだけのことだということです。

「すでに悟りはここに在る」と思い出すことが、「悟り」というものです。

私たちが理解しておかなければならないのは、自分と思っている自分は自我(非実在)であり、その自我がどんなに悟りに近づいて聖者らしくなっていったとしても、自我は自我であることに変わりないということです。

自我が悟りに到達することはけっしてあり得ないということです。

自我はどこまでいっても自我でしかありません。

私たちは思い出さなければならないのは、その自分(自我)とはまったく別のもう一つの自分(真の自己)がいるのだということです。

そして、その自分へとアイデンティティーをシフトしていくことが、このコースの実践で私たちに求められていることなのだということです。

自分だと思っている自分は無意味、無価値、非実在であることを受け入れていくこと、それが悟りへと到達する方法なのだということです。

一元論(非二元)のスピリチュアリストたちが真理を探究していく上でもっとも陥ってしまいがちな誤りが、

自分が悟りに到達する、、、

というそれです。

私たちはすでに二元性の世界に入り込んでいます。

つまり、自我と同一化してしまっているということです。

自我になってしまっているその自分がどんなに神聖な生き方をしたとしても、聖人君主になろうとしても、自我であることに何ら変わらないということです。

またその逆も言えて、自我まみれで生きようが、下劣であろうが、それでもかまわないのだということです。

その自分が自我である、つまり、実在していないのだということを自覚/認識していくことが、私たちがしていくことです。

つまりはそれが、コース(ア・コース・イン・ミラクルズ/奇跡のコース/奇跡講座)でいう「赦し」です。

「非実在、虚偽である」ということは、「何もしていない、何も起きていない」ということであり、そのように見ることこそが「赦し」なわけです。

そう、コース学習者の私たちがしていかなければならないのは、それだけです。

「自分が知覚しているものすべて、さらに、この自分も含めて虚偽である」というふうに、すべてを包含して俯瞰したところから見ていくことをしていくのだということです。

それは、悟りの視点から見る、ということです。

ですから、まず、私たちはその「悟りの視点」を思い出すことが必要です。

その「悟りの視点」を思い出すためには、私たちはコースの思考体系(聖霊の思考体系)について、そして、自我の思考体系についてよく理解することが必須なのだということを覚えておきましょう。

そのために、私たちはコースの形而上学を学んでいるということです。


赦しの視点、つまり、悟りの視点を修得する

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