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自分を向上させていくようなスピリチュアリティとはまったくちがう

この自分が聖者になるという霊性の道ではない

ときに、私たちはコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)について、この自分がより良き自分に、より素晴らしい自分に、より崇高な存在に、そのような自分になっていくためのものだと思いながら、コースを学び、コースを実践していることがあったりします。

この自分が裁かない人間になるとか、
この自分が動揺しない人間になるとか、
この自分が高尚な人になるとか、
この自分が聖者のようになるとか、

コースをそのようなものだと捉えてしまうのです。

でも、コースという霊性の道はそういうものとはまったくちがうものだということを知っておくと良いでしょう。

むしろコースは、この自分こそが実在しない、この自分こそが嘘(偽り)の存在であると教えてくれているのであり、そのことを思い出していく道なのだと言うことができましょう。

つまり、自分だと思っている自分とは自我なのだ、ということを自覚/認識していくことが私たちに求められているということです。

その自我をどうにかしてより素晴らしく向上させようとしたところで、自我は自我であり、自我のままでしかありません。

その自分(自我)をいくら変えたとしても何の意味もないということです。

私たちがコースの実践でしていくことは、その自分(自我)を咎めずに見ることをしていくのです。

コースでは、それを聖霊と共に見る、聖霊のもとに運ぶというふうな言い方をします。

つまり、コースは、自分を高めていくような、自分を高尚にしていくようなスピリチュアルとはまったくちがうものということです。

自分の駄目さ、無能さ、無力さ、至らなさを裁きたくなるとき、その自分をもっとより良き自分へと向上させようとする必要はないのです。

その自分をダメ出しすることも、裁くことも、咎めることもせずに、ただあるがままに見ることをしていきます。

つまり、何もしないということです。

自我を見て、それをより良きものにしよう、変えようとはしなくていいのです。

逆に、もしそうするなら、自我と戦うことになり、自我を実在化させてしまうことになります。

私たちが学ばなければならないことは、それは、ただ冷静に、咎めずに見るという静かなプロセスなのだということを覚えておきましょう。

赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。(W-pII.1.4:1)

奇跡講座/中央アート出版社

私たちがしていくのは、ただただ自我を咎めずに、ありのままに見ることだけです。

咎めずに見るとは、正しい心(イエス/聖霊)と共に見るということです。

そうするならば、自我はそのパワーを失って、取り消されて(消滅して)いきます。

自我まみれの(嘘の)自分はそのままにさせておきなさい、とコースのイエスは教えてくれています。

イエス(聖霊)は、それらすべてが実在しない影(幻想)なのだということを知っているのです。

そのようにイエス(聖霊)が見ているような見方で自我を正視/直視していくことが、コース学習者である私たちがしていくことだということです。


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