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あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である


自分自身に正直になる

自分が、どれだけ自我の思考体系に思い入れをしていることか!

自分は、どれだけ自我の思考体系と同一化していることか!

そして、自分は、どれだけ聖霊(イエス)を拒絶し続けていることか!

コース(奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいくとき、誰もがそのことを自分の中にはっきりと認識していくことになります。

つまり、私たちは真の自己を思い出すことよりも、個別性、特別性を持った偽りの自分(自我)のほうでいることを好んでいるということです。

そう、私たちは、

真の自己に目覚めることを恐れている、
神のもとに帰ることを恐れている、
神の愛を恐れている、

ということです。

それがどういうことを意味するのか?

というなら、

私たちは本当のところ、神の愛や平安よりも苦痛、苦しみのほうがマシだ、そのほうが安全だ、としているのです。

個別性、特別性の「自分」を保持するためなら、たとえそれが苦痛、苦しみであろうがかまわないのです。

その目的のために、私たちはこの世界を作り出し、この世界に居るのだと言っても過言ではありません。

それが、自我であり、私たちなわけです。

コース(奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくことによって、私たちはそのことをますます認識するようになっていきます。


”注意深く見つめて、あなたが本当に求めているものは何なのかを見極めなさい。私たちは互いから何も隠してはならないのだから、あなたはこの点について自分自身に非常に正直にならなければならない。”(T-4.III.8:1‐2)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちは、自我の思考体系によって作り出されたこの世界が大事だと思っています。

神の愛よりも、天国よりも、この世界のほうがいい、としているのです。

神の子であることよりも、貧しき、脆弱で、卑小な自分でいたいわけです。

私たちは、それを、毎瞬毎瞬、望んでいます。

私たちは、そのことに正直にならなければなりません。

正直になるとは、自分の内側にあるものを明らかにしていく、ということです。

それが、コースを実践していくうえで私たちに求められていることです。

つまり、自我の思考体系とそれが作り出したものを明らかにしていく必要があるということです。

それを、コースでは「聖霊と共に自我を直視する」「聖霊のもとに自我を運ぶ」というふうに言っているのだということです。


ささやかな意欲

聖霊と共に自我を直視していくとき、私たちは正直になることが求められています。

そして、さらに私たちに求められているのが、「ささやかな意欲」です。

「ささやかな意欲」とは何か?

というなら、

それは、自分が一歩下がる自分が一歩退く、というその意欲のことを言います。

それは、「別の見方で見たい」という意欲です。

それこそが、自我を教師とする代わりに聖霊を教師として招き入れる、ということであるわけです。

実践において私たちが苦痛や苦しみを感じているとき、

どのようにして正直になっていけばいいのか?
そして、そうしていくならばどうなるのか?

について、ワプニック博士はわかりやすく解説してくれています。


”それは、コースが話している『ささやかな意欲』というものです。私は他に何もするように求められていません。しかし、少なくとも正直になってください。テキストの早い段階で、イエスはこう述べています。”私たちはお互いに何も隠してはなりません”(T-4.III.8:2)と。ですから、彼(イエス/聖霊)に正直であるということは、このように言うことを意味します。『私はまだあなたの愛よりも特別な愛が好きです。そして、それが私がその結果(苦痛や苦しみ)を感じている理由です。』と。それが正直になるということです。それがあなたがしなければならないすべてです。そしてそれをしていくならば、ある時点でその痛み(苦痛や苦しみ)はますます耐え難いものになるでしょう。そしてそれから私は『私はもうこれを望まない』と言うようになります。 それから私はそれを手放すようになります。”

ー『Cast No One Out』ワプニック博士の講話よりー


実践において大事なことは、

自分は何を考えているか?
自分は何をしているか?

その自分自身に対して正直になるということです。

私たちは自分の内側にある思考(想念)、信念、感情、記憶といったもを見つけ出していく必要があるわけです。

というのも、それらすべてが自我の思考体系が作り出したもの(想念)であり、「愛を見えなくしている障壁」であるからです。

いわゆる、「自我を聖霊(イエス)のもとに運ぶ」ことをしていく実践なのということです。

ただし、最初からそのようなことができるものではありません。

内側を見ることに対して自我は抵抗するからです。

私たちは内側を見ることに恐れを抱いたりするわけですが、それこそがまさに自我の抵抗なのだと言うことができます。

「自我を聖霊のもとに運ぶ」という実践ができるようになるためにも、コース形而上学を自分自身に根付かせていくことが必要ですし、コース形而上学に基づいた訓練が必要なのだということです。

それには、地道に学んでいくことと、忍耐強く練習していくことを要するということです。

でも、コース形而上学の学びと、その理解に基づいた訓練をしていくならば、恐れに対しての免疫性も育まれていきますし、内側を恐れなく見ることができるようになっていきます。

いわゆる、聖霊と共に自我を見ることができるようになるということです。

そうするとどうなるか?

というと、まず、自分で自分を傷つけている(苦痛、苦しみを好んでいる)ことが認識できるようになっていきます。

そして、そのことを認識し続けていくにしたがって、次第に、自分で自分を傷つけている(苦痛、苦しみを好んでいる)その自分が耐え難いものになっていきます。

つまり、自分で自分を傷つけている(苦痛、苦しみを好んでいる)その愚かさにウンザリするようになっていくわけです。

それが、上記で示したワプニック博士が述べている内容です。


”そしてそれをしていくならば、ある時点でその痛み(苦痛や苦しみ)はますます耐え難いものになるでしょう。そしてそれから私は『私はもうこれを望まない』と言うようになります。 それから私はそれを手放すようになります。”

ー『Cast No One Out』ワプニック博士の講話よりー


そうなってこそ、ようやく私たちは、その愚かさ(自我)に対して、『私はもうこれを望まない』というふうになるということです。

むしろ、そうならないかぎり、私たちは自我を手放そうとはけっして望まないでしょう。

そのためには、

それがいかに愚かで、苦痛、苦しみをもたらすものであるか!

その愚かさと狂気さ、そして、その代償を、私たちは実践を通して体験的に学ぶ必要があるということです。


自分の価値観を疑っていく

正直になることは、自分が自覚していない内側の無意識の部分を明らかにしていく作業だといえます。

いかに自分は自我(の思考体系)を握りしめていようとしているか!
いかに自分は自我(の思考体系)を手放したくないと思っているか!

私たちは、まさにその自我になっています。

コースの実践においては、むしろ、そのことを認識していくことが重要なのだということです。

自我を手放せない自分、手放したくない自分を認識していくことが私たちに求められているわけです。

その自我を咎めずに見ていくとき、その自我はそのパワーを失っていきます。

恐れている自分(自我)を認識していくならば、恐れは癒されて(取り消されて)いくことになります。

そのようにしていくことで、恐れはその力を失くしていきます。

そうするならば、外側に「投影」することもなくなっていきます。

恐れが取り消されていくにしたがって、コースが教えていることがすんなりと受け入れられるようになっていきます。

それと共に、自分が何なのか?も思い出されていきます。

そのようにして、私たちは癒されていくことになります。

最終的には、神の教師の条件の一つである、「正直さ」を携えて、聖霊と同一化していくことになるといえます。

そのためには、正直になることに加えて、自分の価値観を疑っていく、つまり、自我の価値観を疑っていく、その意欲が求められているということです。

その意欲こそ、コースで「ささやかな意欲」と呼んでいるものです。


このコースを学ぶには、あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である。一つでも隠されて曖昧にしておかれるなら、それはあなたの学びを危うくするだろう。(T-24.In.2:1-2)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちが自我と同一化した状態から脱却していくために、その意欲こそが実践において私たちに求められているものであるということです。

”あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする”ということです。

それは、私たちのヴィジョン(心眼)を開いていくためにしていかなければならないことであり、やがては最終的には、それこそが完全に修得されるべきものであるということです。

というのも、その状態こそが、神の教師の条件の一つである「開かれた心」の状態を表すのだということを知っておくと良いでしょう。


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